もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第37回 労組幹部にも“ゴキブリ人種”がいた


静岡支局時代の筆者(1963年、同支局で)




 静岡支局に着任した日の夜、支局長に飲み屋に誘われた。しかめっ面をした支局長の酒の相手 を務めていると、支局長が言った。「私は、人づくりの名人といわれているんだ」
 当時は池田勇人内閣が「所得倍増」をかかげて高度経済成長政策を推進中で、そのため施策の 一つとして人材養成、つまり「人づくり」を打ち出していた。その言葉が流行語となっていた。 そして、静岡支局長は当時の東京本社編集局長にうけのよい支局長と言われていた。転勤してき たその日に、その支局長からその言葉を聞かされた私としては、「お前の性根を鍛え直してや る」といわれたように思ったものだ。
 また、「君は“松本学校”の一員だったんだな」ともいわれた。“松本学校”とは、一九五八 年から六一年にかけ盛岡支局長をしていた松本得三氏と当時の支局員を総称した呼び方で、松本 氏の地方版(岩手版)づくりを快く思っていなかった人たちがこの呼称を使う時、それは非難を 意味した。
 どうやら、私に関するよほど悪い情報が編集局長室から支局長に届いていたものと思われた。

 翌年(一九六三年=昭和三十八年)春のことだ。朝日新聞労組本部の役員が支局にやってき た。恒例の地方オルグだ。春闘を前にして、組合の方針を地方勤務の組合員に説明したり、地方 勤務者の要求を聴くためだ。
 役員は支局に組合員を集めて会議を行い、終わると、帰っていった。しばらくすると、私に電 話がかかってきた。「今、静岡駅前の喫茶店にいる。話したいことがあるので来ないか」。私は 出かけていった。その役員は東京本社通信部整理課勤務。通信部は地方支局を統括する部、整理 課は地方版を編集するところだったから、私は静岡に赴任する前からその役員と顔見知りだっ た。
 役員が言った。「君も本社に上がったと思ったらまた支局勤務で不本意だろう。本社に帰りた かったら、支局員の思想傾向についてレポートを書き、おれに送れ。そしたら希望をかなえてや る」。これが組合本部役員の言うことか、と驚くばかりだった。
 彼もまた会社の意向に迎合する“ゴキブリ人種”の一人だったのだ。私はただ黙っていたが、 こんな話に乗らなかったのはいうまでもない(後年、東京本社の食堂で顔を合わせる機会があっ たが、彼は小声で「あの話はなかったことにしてくれ」と言った)。

 ところで、静岡支局では、あまり大事件や大事故に出合わなかった。事件といえば、静岡、清 水市内でニセ千円札が発見された事件ぐらいだ。大騒ぎになったが、行使犯人はついにつかまら なかった。
 むしろ、記憶に残るのは海の向こうの事件だ。一九六三年十一月二十三日早暁、前夜からの泊 まり勤務で支局の宿直室で寝ていた私は、本社からの電話でたたき起こされた。ケネディ米大統 領暗殺のニュースだった。支局長を起こし、張り出し(当時は大ニュースがあると、それをビラ にして支局前に掲示するのがならわしだった)や、号外発行に追われたことをいまでも鮮やかに 覚えている。
 支局在勤中、私はもっぱら、遊軍(いわば無任所)で過ごした。他の記者が回らない静岡大 学、県立中央図書館葵文庫、静岡市中央公民館など文化関係を回った。
 静岡大学は、大岩町という市街北部の閑静な住宅街にあった。旧制静岡高校が戦後、新制の大 学になったもので、二階建て校舎がひっそりと建ち並んでいた。
 大学取材でとんだへまをしたことがあった。ある日の午前のことだ。三笠宮が文理学部の教室 で古代オリエント学に関する講義をされた。冒頭の一部が報道陣に公開されたので、私もその取 材にあたった。本紙(全国版)夕刊用に送るべく、支局に帰ってカメラからフィルムを取り出す と、なんと教壇に立つ三笠宮の姿が写っていない。フィルムの入れ方にミスがあったため、シャ ッターを切ってもフィルムが空転していたのだ。
 「もう一度行って来い」という支局長の命令で、大学の教室にとって返した。道々、「三笠宮 は果たして再取材に応じてくれるだろうか」と、気が気でなかった。締め切り時間も迫ってく る。おそるおそる「もう一度写真を」とお願いすると、快く応じてくれた。まさに冷や汗たらた らの取材だった。
 中央公民館では、市教育委員会社会教育主事の坂本五十鈴さんらが立案した「婦人文学教室」 が人気を集めていた。その講師の一人が高杉一郎・静岡大学教授だった。英文学専攻。戦前、改 造社の編集部員で、雑誌『文藝』の編集に携わったが、一九四四年に応召、中国東北部(旧満 州)のハルビンで敗戦を迎える。四年間、シベリアに抑留され、帰国後、その体験をつづった 『極光のかげに』が注目を集める。同教室の取材を通じて高杉氏の知遇を得、氏の自宅を訪ねる 機会にも恵まれた。氏は現在、九十六歳。健在である。
 葵文庫はニュースの宝庫だった。ここで提供された情報をもとに歴史や文化に関する記事をい くつも書いた。ここの職員には実にいろいろなことを教えてもらったが、印象に残る一人に甲田 壽彦がいる。
 黒々とした髪、色黒。みるからに向こう気が強そうな感じ。県児童会館の職員だったが、県上 層部と衝突して図書館に飛ばされてきたといううわさだった。訪ねて行くと、閑職に追いやられ たのが我慢ならないといった風情で、県政、県の為政者の姿勢を嘆いた。県東部の吉原市(その 後、富士市)から通勤していたが、そこは当時、大昭和製紙の本拠地。大小の製紙工場が集中し ていた。甲田は「近くの工場から、硫酸ナトリウムが雨のように降ってくるんだ」と、製紙工場 による公害を憤った。
 私が静岡を去った後、甲田は全国的な脚光を浴びる。県東部の駿河湾田子の浦港に製紙工場か らの排出物がヘドロとなって堆積し、一九七〇年から、社会問題化したからだ。甲田は富士市公 害対策市民協議会会長として、ヘドロ公害反対の住民運動の先頭に立った。
 メディアに登場する甲田を見ながら、私は慚愧(ざんき)に堪えなかった。県立図書館の薄暗 い事務室で彼が製紙工場による公害を必死で訴えるのを聞きながらも、さして気にもとめず、結 果的に彼の訴えを聞き流してしまったからである。
 そればかりでない。私が静岡支局在勤中、静岡県下では、東海道新幹線と東名高速道路の建設 が急ピッチで進められていた。工業化も急テンポだった。私たち支局員は、県版でこれらを「無 限の発展を約束」「運んでくる『豊かな生活』」などと手放しで賛美した。開発がもたらしつつ あったひずみに目を向けることはなかった。林立する工場の煙突から出る煙を、社会発展の証と 思い込んでいたのだ。
 ジャーナリストはすでに顕在化しつつある社会現象から、時代の変化をいち早く読みとらなく てはいけない、といわれる。なのに、静岡では、私は「先」を読めなかった。そんな悔いが残っ た。





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