もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
朝日新聞静岡支局。静岡県庁、静岡市役所、静岡中央警察署
が近くにあった(1962年)
浦和支局から東京本社校閲部に転勤となって十カ月たった一九六二年(昭和三十七年)九月二
十五日、私は突然、静岡支局への転勤を命じられた。私にそれを告げた校閲部長は「私が上申し
た異動ではない。編集局長室からの通告だ。校閲にきたばかりの君がどうしてまた地方へ行かな
くてはならないのか、私にも分からない。仕事でミスがあったわけでもないのに」と言い、目を
パチパチさせた。部長にとっても意外な人事であったことは、その表情からもうかがえた。
当時、四月に定期入社した記者は地方支局を二カ所経験すると、東京本社に引き上げられ、編
集局や出版局の各部に配属される、というのが慣例だった。私はすでに盛岡、浦和の両支局を経
験し、東京本社に移っていた。校閲部勤務は一種の研修期間で、いずれは編集局の他の部に配属
する、と申し渡されていた。しかるに、三度目の地方支局勤務。部長が驚いたのも当然だった。
当時の社内常識からみて異例の人事だったのだ。
が、私には、思い当たることがあった。ある先輩部員の要請を断ったことがあったからだ。
しばらく前のことだ。勤務中に部員のA氏に「お茶を飲もう」と誘われた。四階の喫茶室につ
いて行くと、A氏が切り出した。「職場委員を引き受けてくれないか」
職場委員とは労組の一番末端のポストだ。当時、朝日新聞労組には、全社的な組織として本部
執行委員会があり、その基に各本社ごとに支部執行委員会が設置され、その下に各部の職場委員
がいた。職場委員は各部選出の本部執行委員、支部執行委員をサポートする係。職場の声を集め
て執行委員に伝えたり、執行委員会の決定を組合員に伝達する、いわば職場のまとめ役であっ
た。校閲部にも複数の職場委員がいた。その一人になってくれ、というのだ。
私は「職場委員には不向きです」と即座に要請を断った。なぜか。それは、A氏の言動に信頼
がおけなかったからである。それは、当時の朝日新聞の社内事情と密接な関連をもつ。第26回
での記述を再録する。
一九五九年(昭和三十四年)十一月二十八日から、朝日新聞労働組合による全面ストが行われ
た。ベースアップ要求を掲げての闘争で、ストライキは九十六時間に及んだ。
朝日新聞労働組合編『朝日新聞労働組合史』(一九八二年発行)によると、「スト後の数年
間、会社の組合に対する姿勢は『力』そのものであった」。そして、「組合に加えられた数多く
の『力』とその結果を整理してみると」、「1 東京・編集局を中心に進められた不当人事。ま
ず組合活動家がねらわれ、次いで対象は、いわゆる良識派とみられる人たちまでひろがり、さら
に印刷局を含め典型的な“アカ狩り”となった。2 全社を横断した大がかりな組合分裂の動
き。刷新協議会が中心となった。3 会社が直接、または一部職制を通して組合へ介入し、“ゴ
キブリ人種”がわがもの顔に動き回った」という。
そのうえ「こうした三つの流れは社内のすみずみにまで浸透していった。その結果、脅しと懐
柔、密告と追従がはびこり、職場の空気は暗く、とげとげしくなり、そしてどんよりと沈んでい
った」。
組合役員が地方などに飛ばされただけではなかった。「現状に対し批判的な原稿は『偏向』の
ラク印を押されてボツになり、記者の自己検閲も進んでいった」。「物価問題はタブー視され
た。値上げ反対のキャンペーンはもちろん、記事もあまり出なかった」。「平和、貧しさ――と
いった問題は『硬い』『暗い』との理由で、歓迎されなくなった」
こうした当時の東京本社編集局の動向を一部の社員たちは“木村旋風”と呼んだ。この時期の
人事や紙面制作が、木村照彦編集局長の主導によって推進されていたからだ。
労組を会社のいいなりになる組合にしようと、会社による組合への介入が行われたということ
だろう。そうした会社の先兵となったのが“ゴキブリ人種”であった。
校閲部にもそれと思われる部員がいた。A氏ら数人のグループがそうだった。彼らは横暴だっ
た。例えば、校閲部から出す労組執行委員の選挙。私が当時、この目で現認したところでは、A
氏らのグループが特定の部員を候補に推し、その氏名を彼らの見ている前で投票用紙に書くよう
部員に求めた。投票の秘密性さえ彼らは無視していた。
こんなことがあったから、私は彼らのグループに入るのを拒んだ。が、彼らの目には私の態度
は反会社的と映ったのだろう。彼らが会社側にご注進に及んだものと思われる。静岡支局への転
勤が発令されたのはそれからまもなくだった。
十月六日、私は東海道線で東京駅から静岡へ向かった。静岡駅で下車し、県庁や市役所、静岡
中央警察署などが集中する市一番の繁華街の一角に立つ静岡支局のドアを開けた。
わずか十カ月という短い校閲部勤務だったが、ここにも印象に残る部員がいた。とくに二人の
文学関係者は忘れがたい。
まず、松村文雄。詩人の北村太郎である。当時、すでに著名な詩人で、私もその名を知ってい
た。直接、言葉を交わしたことはなかったが、他の部員が話してくれたところでは、奥さんと子
どもを海水浴場での事故で亡くした、とのことだった。
寡黙な、涼やかな目をした人だった。そう思って見るせいか、その涼やかな目はいつもこころ
なしか悲しげだった。それは、肉親をすべて失うという耐え難い不幸を背負っていたからだろう
か。それとも、自己の出世のために“ゴキブリ人種”になってしまった同僚のいる職場の現状を
憂えていたからだろうか。
もう一人は、木村久邇典。文芸評論家である。『樅ノ木は残った』の作家・山本周五郎の研究
家として知られ、私が校閲部を去った後、次々と山本周五郎に関する著作を発表した。
そういえば、明治の歌人、石川啄木も朝日新聞社の校正係だった。一九〇九年(明治四十二
年)、啄木が二十四歳の時である。
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