もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
校閲部時代の筆者(左)。校閲部員に
よる一泊旅行先の千葉県犬吠埼で
(1962年9月)
朝日新聞浦和支局員だった私は、一九六一年(昭和三十六年)十二月二日、支局長に呼ばれ
た。「おい、転勤だ。本社の校閲部だ」。
その瞬間、全身から力が抜けてゆくような虚脱感に襲われた。私にとっては意外な異動先を告
げられたからだった。
私が朝日新聞社に入社して最初の勤務地である盛岡支局に赴任したのは一九五八年だが、その
ころ、四月に入社した新人記者の人事異動については慣例のようなものがあった。それは、定期
入社の新人記者については二つの地方支局を経験させるというものだ。最初、夕刊地帯(朝刊と
夕刊を配達している地域)の支局に配属させられた記者は、次に統合版地帯(朝刊のみを配達し
ている地域)の支局を経験させる。逆に最初に統合版地域に行った記者は、次に夕刊地帯の支局
を経験させる。二つの支局を経験した記者は東京本社に引き上げ、編集局内の政治、経済、外
報、社会、運動といった出稿部に配属する――というものだった。この間、四年から五年。本社
としては、これを教育期間と考えていたようだ。
自分が盛岡支局から浦和支局に移ったのもこうした慣例による異動だろう、と私は思ってい
た。だから、次に上司から申し渡される異動先は、おそらく編集局の出稿部の一つだろうと予想
していた。
しかるに、校閲部とは。校閲部とは、出稿部の記者が書いた原稿を校閲する部署。いうなれ
ば、原稿を書く部署から、他人が書いた原稿をチェックする内勤の部署への異動であった。「入
社以来、自分としては一生懸命、原稿を書き続けてきたが、ライターには不向きと認定されたの
か」
私が異動の内示に落胆したのもこうした事情があるからだった。が、支局長は言葉を続けた。
「一生、校閲部にいろ、ということではないようだ。編集局長の意向で、こんど、人事異動の方
針が変わった。新人記者を本社にあげるにあたっては、必ず校閲部を経験させ、それから各部に
配属するとのことだ。狙いは、文章を書くにあたっての基本をそこで身につけさせることだそう
だ」。それを聞いて、私は、いくらか気を取り直した。
十二月七日から、東京・有楽町の東京本社三階の編集局にあった校閲部に出勤した。部員約七
十人という大世帯だった。明るい光線の下に向き合った机が二列に並ぶ。そこに座って、原稿を
校閲する部員たち。
校閲をするための道具は、赤鉛筆一本といってよかった。一階下の工場(活版部)から、記者
が原稿用紙に書いた手書きの原稿と、活版部員がそれを見ながら拾った活字をざら紙に印字した
小ゲラが一緒に上がってくる。原稿と小ゲラを照らし合わせて、原稿通りに活字が拾われている
かチェックする。間違っていれば、赤鉛筆で直す。原稿そのものに間違いがないかにも目を配
り、あれば、直す。
小ゲラの校閲がすむと、大刷りが上がってくる。新聞一ページ大の紙に、見出しを付けた小ゲ
ラが組み込まれている。赤字を出したところがちゃんと直っているかどうか確かめる。
こうした校閲を行うために、校閲部員は二冊のハンドブックを持たされた。会社がつくった
「赤本」と「黄本」だ。赤本の正式名は『朝日新聞の用語の手引』で、表紙がえんじ色だったこ
とから「赤本」と呼ばれた。音訓引き漢字表、現代仮名遣い、送り仮名の付け方、外来語の書き
方などがその中身だ。一方、黄本の正式名は『取り決め集』で、表紙が黄色だった。中身は、死
亡記事の書き方、訂正記事の書き方、仮名報道の対象、避けたい表現、敬称の扱い方などだっ
た。つまり、この二冊は校閲をするにあたっての物差しであり、指南書であった。ルール表、バ
イブルと言ってもよかった。私はこれを机の上に置き、それと首っ引きで校閲のABCを学んでい
った。
「赤本」と「黄本」だけに頼っておればいい、というわけではなかった。原稿に人名や会社名
など固有名詞が出てくると、それが正しく書かれているかどうか人名辞典や会社名鑑にあたって
確認する。
原稿が順調に流れてくることはまれだった。多くの場合、締め切り時間の直前に殺到した。そ
んな時は一人で小ゲラを処理できない。隣の人と二人一組となり、相棒に原稿を読んでもらい、
こちらは小ゲラに目を走らせる。それでも、間に合いそうもない時は、汗だくになり、頭がパニ
ック状態となった。
教員異動時の地方版(県版)は大変だった。県版ほとんどが教員名で埋め尽くされる。校閲が
追いつかない。このため、時には誤字があるまま印刷されて配達されたケースもあった。地方版
や文化面など、動きのない紙面の校閲はまだ余裕があったが、絶えずニュースが飛び込んでくる
社会面や一面などは、全く息つく暇もなかった。
それに、校閲は紙面制作の最終過程だから、作業は深夜が多かった。夜明けの帰宅もあった。
校閲は紙面制作の最後の関門である。ここで誤字、脱字や事実の間違いが直されないと、その
まま印刷されて購読者に配られる。極めて重要な仕事なのに、よくやって当たり前、ミスを見逃
せば責任をとらされる。まさに、華やかな脚光を浴びることのない縁の下の力持ちだった。そう
した人たちによって新聞発行が支えられていることを知ったのは、私にとって貴重な経験だっ
た。
私は校閲の仕事を通じて、多くのことを学んだ。校閲の人たちに負担をかけないためにも、原
稿は早く出さなければいけない。原稿を出す前に必ず読み返して誤字、脱字、事実の間違いがな
いよう心がけること。そのためには、記者の側も原稿を書く時は、かたわらに「赤本」「黄本」
を置いて活用することが肝要だ、等々である。
別な言い方をするならば、自分の書いた原稿を客観的に眺めてみることの大切さを知ったとい
うことだった。それは、他人の原稿を読むという校閲の仕事をやってみて初めて得られたものだ
った。
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