もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第34回 「精神の貴族主義」を


欧州総局長時代の和田俊氏(右から4人目)。その左隣は和田夫人。
右から2人目は筆者(1983年10月、ロンドンの和田氏宅で)



 一九六〇年(昭和三十五年)から六一年にかけて朝日新聞浦和支局にいた私たちは、実によく 飲み、かつ議論した。私たちとは、松下宗之(その後、社長)、和田俊(同、論説副主幹)、三 浦真(同、新潟テレビ21役員)、早房長治(同、編集委員)の各記者と私だった。みな、二十代 だった。
 同じ職場のサラリーマン同士の飲み屋での話題といえば、昔も今ももっぱら人事の話だ。上役 の評価、上司への悪口、恨み、つらみ、要領のいい同僚へのねたみや、やっかみをはき出し合 い、日ごろのうさを晴らす。
 「朝日」の場合も、記者たちが飲み屋に集まれば、まずは人事の話、というのが当時のお決ま りだった。しかし、私たちの場合はそうではなかった。人事の話もしたが、それが主要な話題で はなかった。議論の対象は、内外情勢、歴史、政治、経済、思想、芸術、文化、ジャーナリズム など、あらゆる領域、分野に及んだ。
 「日本に社会主義革命は起こるだろうか」「日本に民主主義は定着するだろうか」といったテ ーマをめぐって議論を続けたこともあった。当時は、戦後最大の大衆闘争といわれた六〇年反安 保闘争の直後であり、反体制運動が高揚していた時期であった。さらに、社会主義体制の総本山 といわれたソ連がまだ健在なうえ、日本でも社会主義を掲げる社会党が国会で三分の一の勢力を 誇っていたから、ジャーナリズムでも、社会主義や民主主義への関心は高かった。私たちにとっ ても、それは関心事の一つだった。
 仲間うちで議論するだけではもの足りなかった。私たちは、仕事の後、当時浦和市内に住んで いた粟屋豊・埼玉大学教授(哲学)を訪ねては、話を聞いた。教授はビールをふるまいながら、 私たちの質問に応じてくれた。
 そのころの私たちを突き動かしていたのは、旺盛な知識欲だったと思う。「勉強せねば」とい う共通の意欲が、私たちを精神的に結びつけていた。

 なかでも、とくに和田の知的なものへの傾倒ぶりが記憶に残る。彼は、議論中、よくこう言っ たものだ。「精神の貴族主義を目指そうじゃないか」
 「大辞林」によれば、貴族主義とは「少数の特権階級や、一般の人々よりすぐれた能力をもつ 者が指導的地位に立つことをよしとする思想」とある。
 和田が目指そうとしていたのは、政治的、社会的な特権階級になることや、政治や社会での指 導的地位につくことではなかった。高踏的な立場から、一般大衆を見下そうということでもなか った。それよりも、精神面で、つまり知的な面で高いレベルの人間になろう、ということだった と思う。いわば真の知識人になろう、ということだったと私は類推する。
 その後の和田の軌跡を見ると、そんな思いを強くする。彼は浦和支局在任中にフルブライト留 学試験に合格して米ミネソタ州セント・ポール市の世界新聞研究所に留学する。彼にしてみれ ば、「精神の貴族主義」への第一歩だったのだろう。もっとも、この留学は東京本社編集局幹部 の不興を買い、帰国後、浦和支局に復帰できず、熊本支局に転勤させられる。
 和田はその後、外報部員となり、パリ支局長、欧州総局長を務める。その経験の中から生まれ たのが『ヨーロッパを織る』(中公新書、一九八八年)である。ヨーロッパの人びとのものの考 え方、生活スタイルを考察したものだが、ヨーロッパ文明や歴史に対する彼の博識、洞察の深さ に感嘆させられた。
 彼は書く。「この種の書物を手にとる方々は、どちらかといえば、ヨーロッパになんらかの愛 着を持つ人々が多いのではないかと思われる。そして、その方々はあるいは筆者に『君もまたわ が同志であるならば、愛着をもつゆえんのものはなにか』と、問われるかもしれない。筆者にし て、その答えをいま一つあげるならば、おそらく『ヨーロッパにある個人主義的な雰囲気こそ、 なにものにもかえがたい貴重品である』ということになるかと思う」
 彼にしてみれば、「精神の貴族主義」に至るには、まず、一人ひとりが個を確立してゆくこと がなんとしても不可欠であった。そのことを、彼はヨーロッパでの仕事を通じて確信したものと ものと思われる。
 一九八六年、『欧州知識人との対話』を朝日新聞社から出版する。文化人類学者のクロード・ レヴィ=ストロース、映画監督のアンジェイ・ワイダ、作家のミヒャエル・エンデら二十人との 対談集だ。まさに「精神の貴族主義」に到達したヨーロッパの「知の巨人たち」の世界を紹介し たものといってよかった。
 十年に及ぶヨーロッパ勤務を終えて帰国した和田に会った時、彼があきれ果てたといった表情 で発した言葉を鮮やかに思い出す。「日本では、商売でもなんでも、一人あるいは一社が成功す ると、たちどころに他の者や他社が同じことをやり出す。いうならば、どっと同じことに殺到す る。付和雷同というか、集団主義というか。こんなことはヨーロッパにはない」
 日本の知識人にも違和感を感じたようだ。それは、痛烈な批判となって噴出した。
 「日本では最近、知識人の影がとみに薄くなっているようだ。知識人という呼称から、尊崇の 香気が消え、なにかしら空虚な響きが伝わってくる。知識人と呼ばれてみても、いっこうに有り 難い後光が射してこないのである。……外国からわが国を眺めていると、ある一つの特殊日本的 な現象に気がつく。それを比喩的にいうと、社会全体の『芸能人化』と形容できようか。どうみ ても飲み屋での猥談としか読み取れぬ代物が、才能ある小説家の対談として活字になったり、大 学の先生が漫才的なテレビ番組に出て喝采をはくするという現象は、その一つの例証であろう。 とはいえ知識人の存在が、タレント化することによって明瞭になるという傾向は、やはり日本独 特であって、まだヨーロッパには出現していないように思われる」(『欧州知識人との対話』)  
 とにかく、和田からは知的な刺激を受けることが多かった。が、酒ばかり飲んで怠惰に過ごし てきたから、ついに「精神の貴族主義」を体得しないまま今日まできてしまった。恥じ入るばか りだ。

 和田は、二〇〇二年十月、食道がんで死去、六十六歳だった。マスメディア界ではまれにみる 「知性」が失われたというのが私の実感であった。その早すぎる死が惜しまれる。





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