もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
静岡支局時代に取材で訪れた石廊崎で(1963年)
朝日新聞静岡支局にきて一年四カ月たった一九六四年一月三十一日、異動の内示を受けた。
「二月一日から東京本社社会部員とする」。思いがけない、突然の転勤命令であった。異動の理
由は告げられなかったし、その後もこの人事について会社側から説明を受けたことはなかった。
本社の編集局内で何か重大な変化が起きつつあるのだろうか。それをうかがわせる異常事態
が、この時期、もっと上、すなわち、会社のトップレベルで進行しつつあった。
「朝日新聞社史」によると、前年の六三年十二月二十四日、株主総会が開かれ、村山長挙社長
が役員改選にあたって永井大三常務の再選を拒み、永井常務は退任となった。永井常務は長期間
にわたって業務の最高責任者を務めてきたため、全国の朝日新聞販売店がこれを不満として新聞
代金を納めない、との態度を固めた。このため、村山社長は年明けの六四年一月二十日の役員会
で退任し、代表取締役に広岡知男・西部本社担当らが就任して異常事態は収束に向かった。が、
社主・村山家と経営陣の対立はその後も続き、いまなお解決していない。
この時の販売店による納金拒否の先頭に立ったのが、静岡県内の販売店の集まりである「静岡
県朝日会」だった。静岡市の販売店が静岡支局の隣にあり、当時、その店主が支局に来て、「納
金拒否だ」と息巻いていたことを思い出す。
ただ、会社の上層部で何か重大な事態が起きているらしい、との気配は感じたものの、地方支
局には詳しい情報はもたらされず、地方にいる者にはいったい何が起きているのか、社内事情は
うかがいしれなかった。それだけに、自分自身の異動がそれと関係あるのか、ないのかも全く分
からなかった。もしかすると、社内が希望がもてる方向に少しずつ変わりつつあるのかもしれな
い。そう思うしかなかった。
ともあれ、盛岡支局時代の同僚、浦和支局時代の支局長、それに私より先に社会部に配属され
ていた同期入社の仲間らから電話がかかってきた。いずれも「よかった」という祝いの電話だっ
た。私の心は躍った。
二月十一日。午後零時二分静岡駅発の特急列車で東京へ向かった。列車が興津を過ぎると、右
手に駿河湾が見えてきた。まだ冬であったが、海は波静かで、陽光を浴びた海面が光って見え
た。窓外に広がる穏やかな海面に目をこらしていると、ふと、こんな言葉が脳裏に浮かんでき
た。「待てば海路の日和あり」
荒天に見舞われても、根気よく待てば、航海にいい日和の日もやってくる、という意味だ。わ
が身に即していうなら、東京本社校閲部から静岡支局への転勤はさしずめ“荒天”であったろ
う。しかし、じたばたしないで仕事をしているうちにおのずと道が開けてきた、という思いがあ
った。
東京へ着けば、そこから社会部記者の仕事が始まる。それは、全国が舞台だ。舞台は飛躍的に
大きくなる。とすると、これまで、盛岡、浦和、静岡という三つの地方支局でやってきたことは
いったい何だったのか。それは、一言でいえば、一人前の新聞記者になるための「心構え」、あ
るいは「心得」を学んだということではなかったか。私には、そう思われた。
同期で入社し、東京本社に配属された新米記者十人のうち、地方支局を三つ経験したのは私と
もう一人の計二人だけ。が、私は三つ目の支局を経験することで新たに多くの人々を知り、新た
な事実に出合った。いわば新聞記者としての“財産”を増やすことができたのだ。これらは私を
豊かにしてくれるはずで、きっと今後の仕事にも役立つに違いない。私は、そう思った。
それにしても、地方支局での勤務を通じて、地方には、本社にあがる機会も与えられず、地方
勤務で終わる記者がたくさんいることを知った。地方支局だけを回っている記者もいたし、家族
をともなって県庁所在地以外の地方主要都市を転々とする一人勤務の通信局長もいた。退職まで
に十数カ所の通信局長を務める記者も珍しくなかった。さらに、当時は、特約通信員という記者
もいた。いまでいう契約社員である。雇い主は支局長で、社員と同様の仕事をしながら、その身
分は極めて不安定だった。この特約通信員制度はその後廃止され、この人たちも社員になった。
新聞はこうした人々によって支えられていることを、私は知った。
東京駅が近づいてきた。列車が有楽町付近を通過する時、右手に本社ビルが見えた。最初の勤
務地の盛岡支局に赴任したとき二十二歳だった私は、この時、二十八歳になっていた。
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