もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第27回 他人には優しく己には厳しく  新支局長の挑戦 11


松本得三氏(1976年撮影、61歳)



 朝日新聞盛岡支局長から名古屋本社報道部特信課員に「左遷」させられた松本得三氏だった が、そうした不遇の時代が六年近くも続く。が、一九六六年(昭和四十一年)十一月、ようやく 復権する。東京本社内政部長への異動が発令されたからである。朝日新聞社として地方自治に関 する報道に力を入れることになり、それを担当する部として内政部が東京本社編集局内に新設さ れ、松本氏がその初代部長に抜擢されたのだ。
 一九五九年(昭和三十四年)の朝日新聞労組による九十六時間ストを契機に、朝日新聞社内で は、労組の活動家が不当に配転させられたり、新聞紙面が「右寄り」になるといった異常な事態 が続いていた。そうした状態もようやく正常化に向かい、その中で松本氏も復権したといってよ かった。

 内政部長に就任した松本氏は、住民自治を発展させるための報道に奮闘したようだ。当時、内 政部員だった坂本龍彦氏(その後編集委員)は「松本さんが創り上げた草創のころの内政部に は、この中央集権の日本に、草の根民主主義の道を切り開いていこう、という気迫が溢れていた ように思う」と回想している(『目にうつるものがまことに美しいから――松本得三氏追想・遺 稿集――』)。
 翌六七年に大阪本社編集局次長。六九年四月には論説委員(大阪在勤)となる。同年十二月、 定年を前に五十四歳で退職し、横浜市参与となった。当時の飛鳥田一雄・横浜市長に請われての 転身だった。それにともない、大阪から妻幸子さんとともに神奈川県相模原市に移り住む。
 まもなく横浜市都市科学研究室長に就任。都市問題・都市計画・自治体問題の科学的調査研究 というのが同研究室に課せられた命題だったが、当時の研究室員によると、在職中の松本氏の関 心は、ただ一点、「市役所は、市民の問題を、どこまで市民の立場で考えることができるか」だ ったという。
 朝日新聞社在職中、絶えず松本氏の心を占めていたもの。それは、突き詰めていえば、市民の 立場に立った報道ということだったと思われる。横浜市では、市民の立場に立った市役所になる にはどうしたらいいか、に心を砕いた。新聞記者から自治体幹部へと転身しても、松本氏の問題 意識は一貫していたと見ていいだろう。
 一九七六年、飛鳥田市長から「相模原市長選に立候補してほしい」と懇請される。固辞する が、度重なる要請に横浜市を辞し、社会党・共産党推薦、公明党支持で立候補する。が、自民・ 新自由クラブ・民社支持の前市助役に敗れる。
 その直後、体調を崩し、一九八〇年、直腸がんと診断され、手術を受ける。その後、入退院を 繰り返し、八一年七月十日、相模原市の北里大学病院で死去。六十六歳だった。葬儀は町田市の カトリック町田教会で行われた。 

 ところで、朝日新聞でも、横浜市役所でも、松本氏とつきあいのあった人たちの松本評は一致 する。一言でいうならば「他人に優しく、自分には厳しかった」ということになろうか。こうし た生き方は最期まで貫かれた。
 松本氏が亡くなってまもなくの十月三日付の朝日新聞「声」欄に「忘れられない『ありがと う』」というタイトルの次のような投書が載った。

 「看護婦になって三年目。これまで何十人の人をみとり、お別れしてきたことでしょう。どの 人も、どの人も思い出深い人でした。そして、Mさん、あなたも、その例外ではありませんで た。
 もう動くことができず、体中に痛みがはしり、目をあけていることさえ苦痛で、家族と話をす ることもつらいときに、あなたは、私たちに『ありがとう』をいい続けて下さいました。
 体の向きをかえただけで、氷まくらをおいただけで、力を振りしぼって『ありがとう』といっ て下さいましたね、Mさん。私に、それができるかといえば、とても自信がありません。どんな に思い直しても、少しずつ自分中心の考えにひき寄せられていく不思議さに、どういいわけして よいのかわかりません。それだけに、あなたの強さを感じずにはいられませんでした。
 いつの時でも、感謝の気持ちを持ち続けられたMさん。少しでも、あなたに近づくことができ るよう努めたいと思います」

 投稿者は砂塚雅子さんといい、職業は「北里大学病院看護婦」とあった。「Mさん」が松本氏 であることはいうまでもない。松本氏はいまわのきわまで他人に優しかったのだ。
 一年後、松本氏を慕う人たちによって追想・遺稿集『目にうつるものが……』が刊行された が、それに助川信彦・元横浜市公害対策局長が「秋霜の人」と題する詩を寄せた。そこには、こ んな一節がある。

 「人に接するに春風をもってし
 己れに対するに秋霜をもってのぞむ」
  これは――
  中国から渡来した格言だが
 君を見ていたら
 そんな言葉が
 脳裏を去来した

 どこまでも「外柔内剛の人」であった。
 八二年から毎年、命日の前後にかつての盛岡支局員、朝日新聞社員、横浜市職員ら
による「松本得三さんを偲ぶ会」が開かれ、それは二〇〇二年まで続いた。計二十一
回。一人の新聞人を偲ぶ集まりとしては異例の長さと言っていいだろう。





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