もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第26回 妥協によって勝つよりも堂々たる敗北を  新支局長の挑戦 10


名古屋本社特信課時代の松本得三氏
(1961年7月、三重県浜島町で。家族と
ともに海水浴に行った時のスナップ)



 朝日新聞岩手版を一変させた盛岡支局長・松本得三氏は、一九六一年(昭和三十六年)二月一 日、名古屋本社報道部特信課員に転勤となった。支局長在勤二年三カ月であった。私はそれに先 立つ一九六〇年八月に盛岡支局から浦和支局に移っていたので、支局長の異動を浦和支局で聞い た。
 それは、私にとって衝撃的なニュースだった。いや、盛岡支局員や、松本氏を知る記者にとっ ても同様だったに違いなかった。なぜなら、だれが見ても不当な降格人事、要するに左遷だった からである。
 朝日新聞政治部員だった太田博夫氏が書いている。
 「当時、名古屋本社には、出稿部としては報道部がただ一つで、そのなかに特信課があった。 天藤明さんが部長で特信課長を兼任していた。支局長までやった松本さんは、ただ一人の特信課 員であった。名古屋管内では、朝日新聞の地元ニュースを流すラジオ・テレビ局がなかったの で、仕事といえば、電光ニュースの原稿を書くぐらいのものだった」
 「三十七年の春、私は突然、名古屋本社特信課長へ転任を命じられた。『六〇年安保』のこ ろ、政治部で首相官邸、自民党のキャップとしてはなやかにマスコミに乗っていただけに、大き なショックだった。……重要な課といいながら、先輩の松本さんが課員で、後輩の私が特信課長 になって、やっと二人で、しかも、仕事らしい仕事はない状態であった。いわば“島流しの二人 組”であった」(『目にうつるものがまことに美しいから――松本得三氏追想・遺稿集――』、 一九八二年刊)

 どうして、こんな人事が行われたのだろうか。
 当時盛岡支局員だった伊藤源之氏(その後東京本社特信部、学芸部を経て「声」編集長を歴 任)は、その間の事情をきわめて簡潔かつ的確に書いている。
 「昭和三十四年暮れの朝日労組九十六時間スト、翌年の安保報道をめぐる社内規制などを通じ て暗い雰囲気が社内をおおい始めた中で、松本さんは三十六年初め、名古屋本社の特信課員に転 勤となった。支局長として、誠実に岩手版作りに励んでおられた松本さんにとって、どうみても 左遷であり、時の権力に楯突くものへの見せしめとしか思えなかった」(『目にうつるものがま ことに……』)
 伊藤氏も指摘しているように、松本氏の異動には、当時の「朝日」の社内事情が影響してい た。

 一九五九年(昭和三十四年)十一月二十八日から、朝日新聞労働組合による全面ストが行われ た。ベースアップ要求を掲げての闘争で、ストライキは九十六時間に及んだ。
 朝日新聞労働組合編『朝日新聞労働組合史』(一九八二年発行)によると、「スト後の数年 間、会社の組合に対する姿勢は『力』そのものであった」。そして、「組合に加えられた数多く の『力』とその結果を整理してみると」、「1 東京・編集局を中心に進められた不当人事。ま ず組合活動家がねらわれ、次いで対象は、いわゆる良識派とみられる人たちまでひろがり、さら に印刷局を含め典型的な“アカ狩り”となった。2 全社を横断した大がかりな組合分裂の動 き。刷新協議会が中心となった。3 会社が直接、または一部職制を通して組合へ介入し、“ゴ キブリ人種”がわがもの顔に動き回った」という。
 そのうえ「こうした三つの流れは社内のすみずみにまで浸透していった。その結果、脅しと懐 柔、密告と追従がはびこり、職場の空気は暗く、とげとげしくなり、そしてどんよりと沈んでい った」。
 組合役員が地方などに飛ばされただけではなかった。「現状に対し批判的な原稿は『偏向』の ラク印を押されてボツになり、記者の自己検閲も進んでいった」。「物価問題はタブー視され た。値上げ反対のキャンペーンはもちろん、記事もあまり出なかった」。「平和、貧しさ――と いった問題は『硬い』『暗い』との理由で、歓迎されなくなった」
 こうした当時の東京本社編集局の動向を一部の社員たちは“木村旋風”と呼んだ。この時期の 人事や紙面制作が、木村照彦編集局長の主導によって推進されていたからだ。

 『労働組合史』は書く。「そんな中で山林地主と農民をめぐる入会権問題や労働者の人権問題 を正面から採りあげ、継続的にニュースとしていた岩手版は、当時の社内にあって“目立った存 在”だった」
 松本氏は当時、労組役員でも活動家でもなかった。左翼的な組織のメンバーでもなかった。一 九三八年(昭和十三年)、京都大在学中に京都三条河原町のカトリック教会で洗礼を受けたクリ スチャンであった。
 松本氏にはソ連抑留体験があった。朝日新聞に入社後、召集を受け、旧満州(中国東北部)で 敗戦を迎え、一九四七年に帰国するまでの二年余、ソ連に抑留された。ソ連から帰国した抑留者 の中には、共産主義を礼賛する人や、反ソ・反共になった人がいたが、松本氏はそのどちらでも なかった。ソ連の体制には厳しい見方をしていたが、ロシアの民衆には親近感を抱いていた。
 「松本さんはあまりにも心優しく、人間愛に燃えていたがために、恵まれない人や虐げられた 人たちを見下したり力で抑えつけようとする人間を、見逃すことができなかったのだ。だから、 松本さんは反権力感情が極めて強く、草の根民主主義を尊重し、それを岩手版の紙面づくりにも 大きく反映していった」。盛岡支局員だった沼口好雄氏の松本評である。当時の支局員に松本評 を語らせれば、みな同じように答えただろう。
 九十六時間スト後の「編集局の右旋回」(『朝日新聞労働組合史』)の中で“目立った存在” となっていた岩手版づくりが問題にされての左遷とみるほかなかった。

 人間、意にそわない境遇に投げ込まれると、えてして、愚痴をこぼしたり、やけくそになった り、はたまた早くそこから抜け出そうとして卑屈になったり、自分をそういう境遇に陥れた相手 方に泣訴したりするものである。が、松本氏は異議を申し立てることもなく、いつもの笑みをた たえた顔で平然と、いや凛として新しい任地に赴いた。そして、名古屋本社の片隅で独り電光ニ ュースの原稿を書いた。
 松本氏が在籍した政治部の後輩で論説副主幹を務めた今津弘氏は、書く。
 「松本さんは、世俗的な駆け引きや原則を捨てた妥協によって勝つよりも、堂々と敗北を選ぶ 人だった。よしとする道義的目的のためには、政治的敗北を辞せず、満身創痍になることで、か えって人々を勇気づける人だった」(『目にうつるものがまことに……』)





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