もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第25回 続・松本学校が生んだ意欲作  新支局長の挑戦 9


前森山集団農場(前方の山は岩手山。1959年、岩手県松尾村で)



 松本得三氏が支局長に着任してからの朝日新聞盛岡支局は、岩手県内の諸問題に対し積極的な 報道をおこなった。
 辻謙記者の「江刈酪農」をめぐる報道、木原啓吉記者の小繋(こつなき)事件をめぐる報道に ついてはすでに紹介したが、小林隼美記者の「東磐井のタバコ耕作組合をめぐる紛争」に関する 一連の報道も私の記憶に残るものだった。

 岩手県の南部に東磐井郡(ひがしいわいぐん)という地域がある。農村地帯だが、私が盛岡支 局員だった一九五八年(昭和三十三年)から六〇年(昭和三十五年)にかけては、東山葉という 葉タバコの産地として知られていた。タバコ耕作農民は約七千三百人にのぼるといわれた。
 五八年春から耕作農民の間で紛争が生じた。新しく成立したタバコ耕作組合法によって新しい タバコ耕作組合が設立されることになったが、耕作農民が郡一組合派(専売公社派)と町村別組 合派(反専売公社派)に二分され、争いとなった。町村別組合派にいわせると、郡一組合では地 域が広すぎてまとまった総会が開けず、民主的な運営ができないという。
 専売公社は職員を動員したり、旧タバコ耕作組合の有力者と結んだりして、町村別派農民の抱 き込みをはかった。しかし、農協青年部を中心とする町村別派は自主的な葉タバコ耕作を実現す る好機として「東磐井タバコ耕作を守る会」をつくって対抗した。この問題は再三、衆、参両院 の大蔵、農林委員会でも取り上げられた。
 一年にわたる紛争の末に、結局、両派が県の調停案をのみ、解決に向かった。それは「一組合 をつくり農協ごとに支部設置」という内容で、組合数では郡一組合派の主張が通り、一方、単位 農協ごとに支部を置くこと、支部に運営委員会を設け、自主的に活動させる点では町村別派の言 い分が通った。五九年七月一日付朝日新聞岩手版の解説記事「解決した煙草耕組紛争」は、見出 しで「立ち上った“物いわぬ農民”」「今後の相手は専売公社」とうたい、「この事件は“物い わぬ農民”がさけび立ち上ったもので、自主的な農村民主化運動である」と位置づけていた。

 こうした一連の先輩記者の仕事に私は大いに刺激された。私も何かテーマに出合ったら、十分 な取材に基づいて積極的な報道を心がけなくては、と思った。
 警察担当(事件担当)、労働担当、教育担当を終えて農業担当になった私が、まず直面したの は「余マス問題」だった。
 農業担当といっても、農業に関しては全くの素人。農業の経験はなかったし、農業について学 んだこともなかった。だから、農業関係団体や県の農政課などを丹念に回らねばと思った。盛岡 市内にあった岩手県農村青年連盟にあいさつに行ったら、そこの役員が「これから余マス制度廃 止闘争だ」という。
 「余マス制度」とは農家が米を売り渡す際、一俵あたり三百〜四百グラムの米を余分につめる というもの。米が消費者に渡るまでの持ち運びの途中、目切れしないように採用されていた制度 だが、県農青連は、一俵の余マスはごくわずかだが、数万俵ともなると農家の負担は大きいとし て廃止すべきだと考えたのだ。この制度は強制的ではなかったが、当時の食糧事務所(農林省) が産米改善協会を通じて余マスを入れるよう業務指導していた。
 私は、さっそくこれを記事にした。五九年九月三十日付岩手版のトップに「余マス制度全廃 を」「農青連 食糧事務所に近く申し入れ」という見出しで掲載された。反響は大きかった。農 青連が食糧事務所に申し入れる一方、各地で「余マス拒否」の実力行動に出るに及んで、この問 題は県農業界の大問題となる。
 そればかりでなかった。国会でも取り上げられるまでになった。結局、同年十一月十三日、福 田赳夫農相(のちの首相)が参院農林水産委で社会党議員の質問に答えて「いわゆる余マスは今 後行わないように指導する」と政府見解を述べ、解決に向かった。
 農青連側の勝利といってよかった。こうした一連の展開の中で、私は、自分の書いた記事があ る動きを生み、それを報じた記事がまた新たな動きを生むといった具合に
急速に波紋を広げてゆく手応えを感じていた。

 「ジャージー牛問題」についての記事も反響を呼んだ。農林省は酪農振興のために一九五三年 からオーストラリアやニュージーランド産のジャージー種乳牛を全国の酪農地帯に導入しはじ め、岩手山麓の農家にも導入された。が、この牛に不良牛が多い、という声を耳にした私は岩手 山麓を歩き、そうした農家の声を集めて原稿にした。それは、六〇年四月八日付の「朝日」全国 版に載った。この記事も県内外で関心を集め、結局、農林省も不良ジャージー牛については補償 対策を打ち出さざるを得なかった。

 農業のあり方に関心を深める中で、私は県北部の松尾村に、全国でも珍しい、徹底した農業共 同化を進める集団があるのを知った。「前森山集団農場」といい、子ども三十九人を含む二十七 世帯九十四人が、生産と生活の両面にわたる全面共同化を進めていた。中国から引き揚げてきた 人たちが一九五四年に前森山中腹の、標高六〇〇メートルの国有林地帯を切り開いて集団入植し たもので、酪農を主体とする農場建設に挑んでいた。
 私は雪を踏んでここを訪れ、六〇年三月、岩手版に三回にわたってルポ「前森山集団農場を訪 ねて」を連載した。さらに、雑誌『世界』(岩波書店刊)の求めに応じて、同誌の六一年十一月 号に「諏訪弘」のペンネームで「前森山集団農場の歩み」を発表した。これには十ページにわた るグラビアが添えられていたが、それは写真家・川島浩氏の作品であった。その川島氏も先ごろ 亡くなった。

 先輩記者の意欲的な記事も、私の記事も、農業ならびに農民に関するものだったという点で共 通している。当時の岩手県は農業県だったから当然といえば当然だが、次のような事情もあった のではないか、と私は考える。
 戦前、地主の前で言いたいことも言えなかった小作農民が、戦後の農地改革で小作から解放さ れ、自作農になった。その農民たちが、ようやく自分たちの権利に目覚め、要求を掲げて自ら声 をあげ始めた。物言わぬ農民から物を言う農民へ。私たちが盛岡支局で働いたのは、ちょうどそ ういう時期だったのではないか。
 私たちは、戦後日本の農村の転換期に立ち会うという機会に恵まれたのだ。





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