もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
第24回 松本学校が生んだ意欲作 新支局長の挑戦 8
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岩手県江刈村の江刈酪農の酪農工場
(中野清見著「新しい村つくり)から」
一九五九年(昭和三十四年)に朝日新聞盛岡支局長に着任した松本得三氏は、私たち支局員に
対し“記者教育”を施した。若い支局員に記者としての基礎を身につけさせようとしたのだ、と
私は思う。
もっとも、教育といっても、いちいち支局員をつかまえて説教するというのでは決してなかっ
た。むしろ、自らの行動、生き方を示すことによって、支局員が自ら記者としての基礎を体得し
てゆくようにし向けた、と私には思えた。
そんな当時の支局の雰囲気の一端を、当時の支局員の一人、沼口好雄氏(その後、東京本社経
済部員を歴任)は次のように活写している。
「支局では夜ともなると、薪ストーブを囲んで支局員が茶わん酒をくみ交わし、人生や政治な
どいろいろの問題について議論を展開した。そんなとき、あまり酒の強くなかった松本さんも必
ず加わり、温顔に微笑を浮かべながら、支局員たちの意見に耳を傾け、ときどき的確な助言でわ
れわれの心をひきつけたものだった。そのころから、朝日新聞社内で盛岡支局を指して“松本学
校”という呼び名が生まれたが、毎夜のような支局での団らんは、さしづめそのセミナーといえ
たかもしれない」(『目にうつるものがまことに美しいから――松本得三氏追想・遺稿集―
―』、一九八二年刊)
“松本学校”は「東京の編集局内では知らない者がないくらい」(岡田任雄・元政治部長、元
出版担当)になった。
「いい県版をつくりたい」という支局一丸となった熱意は、岩手版を変えた。その変容ぶりの
一端はすでに紹介したが、紙面が活気を帯びただけではなかった。当時の他紙県版と比べてもユ
ニークな記事が岩手版を飾った。筆者の側が自分たちの記事について云々するのは気がひける
が、それを許していただけるならば、記者の問題意識をうかがわせる積極的な報道が少なくなか
ったと私は思う。印象に残る記事のいくつかを紹介する。
まず、支局員の最長老だった辻謙記者(後に論説委員)の「江刈(えかり)酪農」をめぐる一
連の報道だ。
岩手県北部に葛巻町江刈地区(旧江刈村)という農村があり、江刈酪農はそこの酪農民が自ら
出資して設立した乳業工場だった。その中心的な役割を果たしたのが中野清見氏。同氏は江刈村
の出身。東大経済学部を卒業後、旧満州に渡るが、補充兵で応召し、敗戦後引き揚げてきて、村
長を務める。その時、地主の支配下にあった村民の貧しさ、みじめさに義憤をかきたてられ、農
地改革の先頭に立つ。結局、数人の地主が所有する山林・草地を小作農家に解放させた。地主勢
力の抵抗には体を張った。
終戦直後の農地改革では、農地は解放されたが、山林はてづかずだった。だから、江刈村にお
ける山林解放は全国的にもまれなケースだった。
次いで、酪農の民主化に情熱を燃やす。当時、この地方の酪農農民は大企業の乳業メーカーの
いいなりだった。そこで「農民の、農民による、農民のための酪農」を掲げて一九五二年に設立
したのが江刈酪農で、「中野氏は、さしずめ風車に立ち向うドン・キホーテのようなもの」(辻
謙記者)だった。
でも、同社は経営不振に陥り、一九五八年に操業休止に追い込まる。中野氏は再建に奔走す
る。辻記者はその再建の動きを積極的に報じた。「若かった私は理想を追い求める中野氏の姿に
感激した。その情熱に夢中になり、何度も遠い山の中まで出かけて行った」と書いている(『目
にうつるものがまことに美しいから――松本得三氏追想・遺稿集――』)。
が、結局、同社は大手の乳業メーカーに吸収され、中野氏の試みは挫折する。「大手乳業メー
カーが農民の一人一人を切り崩すことによって、別な言葉でいえば農民の裏切りによって、中野
さんは敗北した」(辻記者)のだった。
私は先輩記者の書くルポを関心をもって読んだ。なぜなら、中野氏の著作『新しい村つくり』
(新評論社、一九五四年)を読み、氏の理想と情熱に共感するものがあったからである。これ
は、山林解放闘争から江刈酪農創設までを書いた自伝であった。
後年、社会部記者となった私は、朝日新聞が本紙で連載した企画『新人国記』岩手県編で、中
野氏を取り上げた。この連載で岩手県を担当したからだ。一九八一年のことで、その時、中野氏
は県北部の一戸町の町長をしていた。町役場を訪ね、初めて会った。「この人が山林解放闘争や
酪農会社創設を主導した人か」。盛岡支局で辻記者のルポを読んでから二十二年がたっていた。
その一戸町に小繋(こつなぎ)という地区がある。ここで起きたのが、小繋山の入会権(いり
あいけん)をめぐる争いが生んだ小繋事件だ。入会権とは、山林原野の一定地域を地区全体の所
有として地区住民が立ち入り、たきぎなどを採取する権利のことで、封建時代から続いた慣習上
の権利とされる。
事件は、明治の初め、地租改正を機に、それまで入会山だった小繋山について地区の有力者の
所有名義で地券が発行されたことに端を発し、その後、小繋山が転売されたことで山の所有権を
得た人(地主)が地区民(農民)の山への立ち入りを拒否したことから紛争が生じた。それまで
どおり、山に入って材木や薪を切り出した農民ら九人が森林法違反、窃盗容疑で逮捕された。農
民にしてみれば、入会権があるのだから木を伐るのは当然のことであり、材木や薪は生活必需品
だったのだ。一九五五年のことである。
一九五九年、盛岡地裁は小繋山には入会権ありとし、森林法違反については無罪とした。しか
し、仙台高裁はこれをくつがえし、最高裁も一九六六年、高裁の判決を支持し農民らの有罪が確
定する。
事件は、三代にわたる入会権紛争であったうえ、都立大教授の戒能通孝氏がその職をなげうっ
て農民側の弁護に立ったこともあって、全国的な関心を集めた。
盛岡地裁での判決の前から、事件のあらましと問題点を詳細に岩手版で報道したのが、支局員
の木原啓吉記者(その後、編集委員を経て千葉大学教授、江戸川大学教授を歴任)である。木原
記者が事件に着目したいきさつはすでに紹介した(第18回「名もない人々のつぶやきを聞
け」)が、同記者の記事が、雑誌『世界』(岩波書店刊)の編集者の目にとまり、同誌が積極的
にこの事件を取り上げた。こうして、木原記者による報道が、小繋事件が全国的に知られる一つ
のきっかけとなった。
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