もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
岩手の象徴、岩手山。標高2039メートル(1958年の初夏、
玉山村渋民から写す。手前の流れは北上川)
一九六〇年(昭和三十五年)八月六日、私は盛岡駅から列車で埼玉県浦和市(現さいたま市)
へ向かった。浦和支局に転勤になったからである。かくして、私にとって最初の赴任地であった
盛岡支局勤務は二年四カ月で終わりをつげた。
この間、取材先で実に多くの人びとに出会うことができた(直接会うことがなくても、近くで
垣間見ることができた)。そして、実に多くのことを学んだ。これも、新聞社の名刺を出せばだ
れでも会ってくれる新聞記者という職業がもつ特権のおかげだったとつくづく思う。
どの人も忘れがたい。その中から、とくに印象に残る人たちについて書いておきたい。
盛岡市街の中心に岩手県庁があった。当時は木造二階建てで、なかなか風格のある建物だっ
た。正面玄関に向かって右手の部分のどんづまりの一階に記者クラブがあり、各社の記者がつめ
ていた。そこには、机や電話のほか、麻雀用のテーブルもあった。
盛岡支局に赴任した一九五八年の、夏か秋の午後のことだったと思う。サツまわり(警察まわ
り)だった私は、県政担当の先輩記者に教えをこいたいことがあり、記者クラブを訪れた。
四人の男たちが、麻雀卓を囲んでいた。中に長身であごのしゃくれた中年の男がいた。「新聞
で見たことのある顔だな」と思って眺めていると、先輩記者が「鈴木善幸だよ」と耳打ちしてく
れた。「彼は、岩手に帰ってくると、よくここに顔を出すんだ」。相手をしているのは各社の県
政担当記者らしかった。
鈴木善幸。当時、岩手一区選出の衆院議員(四人)の一人で自民党。その時の印象は「さえな
い感じの政治家だな」というぐらいのものだった。その政治家が二十二年後に総理大臣になるな
んて、その時思ってもみなかった。
三陸沿岸の山田町に生まれた。生家は水産加工業。農林省水産講習所(現東京海洋大)卒。漁
協活動に携わるが、郷土を貧しい辺地から救い出そうと政治家を志す。一九四七年、社会党公認
で衆院議員に初当選。その後、民自党(後の自民党)に転じ、連続十六回当選を果たす。
一九六〇年、第一次池田勇人内閣に郵政相で初入閣。六四年には第三次池田内閣の官房長官と
なる。その後、厚相、自民党総務会長、農相などを歴任。官僚出身者が多かった池田派・大平派
で党人派として活躍し、大平正芳内閣の実現に尽力した。
八〇年七月、大平首相の急死にともない、第七十代総理に就任する。党内では「和の政治」を
説き、調整役に徹していただけに、首相就任を予想した人は少なかった。それだけに、首相就任
に対し、マスコミで「善幸? WHO」と書かれた。その在任中、政治部記者が「彼は暗愚の帝
王だよ」と評するのを聞いたこともある。しかし、私は岩手県庁の記者クラブで麻雀卓を囲んで
いた鈴木を想い出し、ひそかに親近感を覚えたものだ。総裁再選が確実視されていたのに、八二
年十月、突然、総裁選への不出馬を表明し、退陣した。
とくに印象に残っているのは、「同盟関係」をめぐる発言だ。八一年に訪米、日米共同声明に
「日米同盟関係」との表現が初めて盛り込まれた。ただ、鈴木首相は「日米同盟には軍事的な意
味は含まない」との解釈を示し、「軍事的関係を含む」とする外務省と対立、伊東正義外相の辞
任という事態を招いた。
これについて、鈴木の死去(二〇〇四年七月十九日)後の七月二十日付朝日新聞に載った評伝
で、中島俊明・元論説副主幹・北海道支社長は「鈴木氏は『西側の一員』をみとめたが、米国の
戦略とは極力、距離をおこうとした」と述べている。そして、こう続ける。
「首相辞任後、しばらくたって、後継となった中曽根康弘首相の対米協調路線を批判して『超
大国の核戦力の前に通常兵器をどんなに充実させても、力には限界がある。それよりも、平和を
求める第三世界の声の先頭に立って、軍縮を求めて行くべきだ』と語った。共同声明をめぐる混
乱の中で強調したかったのは、このことだろう」
歴代の首相の中ではハト派だったのだ。昨今の小泉首相の発言と比べると、その違いが際だ
つ。これには、鈴木が生まれ育ったところが三陸海岸の貧しい漁村であったことや、「護憲」を
掲げる社会党に一時籍を置いていたことなどが影響しているのではないか。これまで、私はそう
思ってきた。
今度、鈴木が首相在任中の八二年六月九日に第二回国連軍縮特別総会でおこなった演説を改め
て読んでみたら、こんな箇所があった。
「私は、戦火の廃墟の中にあって、政治に志を立、我が国の憲法の理想とする戦争のない平和
な社会の実現を目指して国民と共に努力してまいりました。爾来三十五年、平和のために一身を
捧げたいと思う私の信念は、今なおいささかも変わるものではありません。私は、この壇上か
ら、世界の人びとに対し、日本国民の核廃絶と平和への願いを強く訴えるものであります」
「議長。私は、若い頃、海に親しみ、しばしば船上から夜空にまたたく無数の美しい星を眺め
ては、神秘の感に打たれたものでありました。我々の宇宙には、何千億もの星が存在していると
言われます。しかし、我々の知る限りこの星の中で生命の宿っているのは唯ひとつ我々の住むこ
の地球のみであります。我々は、祖先から受け継いだこのかけがいのない地球を、愚かな選択に
よって破滅に追いやることは許されないのであります。繁栄か滅亡かは、かかって我々の双肩に
あります」
鈴木は演説の直前まで演説の文案に手を入れていたという。ここには、確かに鈴木の本音が表
出されている。私の推論は間違っていなかった、と納得した。
八二年十二月十三日、国連総会本会議で核不使用決議案に対する採決があった。日本政府は過
去二年間、この決議に反対してきた投票態度を変更し、棄権した。外交政策上の重要な変更であ
った。
鈴木首相退陣直後のことだったが、鈴木沙雄氏(元朝日新聞論説委員)によれば、これは「ハ
ト派志向の善幸さんの置き土産」だったという(『平和運動と日本外交』(朝日新聞社調査研究
室の社内報告、一九八九年)。
当時の岩手県選出の保守政治家としては、小沢佐重喜も印象に残る。岩手二区選出の自民党代
議士。県南の水沢市が地盤だった。運輸相、郵政相、建設相などを歴任。彼の三男は今、民主党
の実力者、小沢一郎氏である。同じ選挙区に外相、自民党副総裁を務めた椎名悦三郎がいた。こ
ちらも水沢市を地盤としていたので、総選挙ともなると、小沢と椎名が激しい選挙戦を展開した
ものだ。
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