もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第20回 少数派を励ます  新支局長の挑戦 4


メーデーに参加した合同労組の組合員たち
(1959年5月1日、盛岡市内で)



 朝日新聞東京本社から盛岡支局長に着任した松本得三氏は、支局員にさまざまな語録を残した が、中にはこんなのもあった。
 「社会的な少数者を励ますこと、それも新聞の役割の一つだよ」

 それまで、新聞のあり方に関して上司や先輩記者から聞かされたことといえば、「新聞はいか なる場合でも中立的立場を保つべきだ」というものだった。だから、松本支局長のこうした発言 は、私にはなんとも斬新なものに思え、永く忘れられない語彙となった。 
 松本支局長のこうした考え方は、岩手版づくりの中で具現化されることになる。

 盛岡市内では、一九五八年(昭和三十三年)五月から、中小企業や零細企業で労働組合の結成 が進んだ。県内の総評系労組の集まりであった岩手県労働組合総連合(岩手県労連)が、中小企 業や零細企業に働く人たちの労働条件が低いのに目をつけ、その向上を目指して、労組づくりを 働きかけたからである。
 まず、中小企業や零細企業の従業員が個人の資格で、しかも匿名で加入できる「盛岡地区一般 合同労組」をつくった。そして、各職場で組合員が増え、その企業で過半数に達すると支部をつ くらせるという行き方をとった。
 その結果、呉服店、洋服店、酒造店、醤油店、食料店、スーパーマーケット、タクシー会社で 次々と労組が産声をあげた。一年後の一九五九年(昭和三十四年)五月には、十五支部五百五十 人の組合員を擁するまでになった。まさに“合同労組旋風”といった感じだった。
 なかでも、盛岡市民の注目を集めたのは、五十有余年の古いのれんを持つ松屋デパート(社長 は自民党参院議員)で、合同労組松屋支部が結成されたことだった。この年一月二十日の夜、同 デパートの従業員八十人が突如、市内の旅館に集まり、労組結成を宣言したのである。当時、盛 岡のデパートは二つ。その中でも松屋は老舗だったから、市民も驚いた。
 相次いで生まれたこれらの労組の要求をみると、「恋愛の自由を認めよ」「私生活に干渉する な」「身体検査をやめてほしい」「週休制にしてほしい」「生理休暇、年次有給休暇をもらいた い」「休憩時間は自由に使わせて」「ガミガミ怒らないで」などといったもので、いずれも労働 基準法以前の要求であった。いわば、「人権要求」と言ってよかった。

 松本支局長が盛岡支局に着任したのは五九年十一月。翌十二月に支局員の配置替えがあり、そ れまでサツまわり(警察まわり)だった私は、労働・教育担当になった。
 県労連や盛岡地区労を回っているうちに、合同労組が急速に成長していることを知った。「こ れはニュースだ」と思い、支局長に報告すると、すかさず、こう言われた。「そうした動きは積 極的に報道するように」。そこで、私は合同労組支部の結成を丹念にフォローし、記事にした。
 ところが、この合同労組報道が思わぬ波紋を生む。というのは、盛岡市内の朝日新聞販売店、 毎日新聞販売店にも合同労組が生まれたからだ。両販売店の労組加入従業員で一つの支部をつく り、各販売店はそれぞれ分会とするという位置づけだった。
 私は、五九年一月三十一日付の岩手版「月間報告」欄で、「伸びる合同労組」と題するまとめ 記事を書き、その中で、このことに簡単に触れた。自分が勤務する新聞社の販売店に組合ができ たことを記事にすることには、正直言って私の中でためらいがあったが、結局、それを振り切っ て記事にした。なぜなら、それまでの一連の合同労組誕生の記事はすべて具体的な企業名を挙げ て書いてきたので、新聞販売店における労組結成だけ書かないとなると、報道の公正さを失う、 ひいては新聞の信用を失いかねない、と思ったからだ。
 「毎日」だけ書いて「朝日」は書かないというわけにもいかない。支局長も「朝日の販売店の ところだけ削れ」とは言わなかったし、私の原稿を手にした時も、その部分を削除せず、そのま ま出稿した。
 支局が労組結成を記事にするようだと察知した朝日新聞販売店は、記事にしないでほしいと支 局に言ってきた。しかし、支局長は態度を変えなかった。
 翌朝、岩手版が東京から届くと、販売店の御曹司が血相を変えて支局にやってきた。「なぜ、 載せたのか」という抗議だった。が、支局長は動じなかった。御曹司がなお抗議すると、支局長 は「編集方針への介入だ」として、御曹司の支局への出入りを禁止してしまった。
 こうしたやりとりをかたわらで聞いているうちに、私の中で次第に強くなってゆく思いがあっ た。「潔癖なほど筋を通す人だな、この支局長は」。支局長に対する畏敬の念と信頼感が増し た。
 
 松本支局長も「新聞はいかなる場合でも中立的立場を保つべきだ」という新聞のあり方を否定 していたわけでは決してない。日本の社会では、ほおって置けば、少数派に属する人たちに発言 の機会が与えられることはほとんどない。だから、民主的な社会を実現するためには、新聞は少 数派にも発言の機会を与え、その活動を報道しなくてはならない。つまり、新聞は個々の係争事 案には中立的立場をとらなくてはならないのは当然だが、世の中にある多様な意見や動きをすく い上げ、紹介して行くことも大切だ――松本支局長の言わんとするところはそういうことなのだ と、私は理解したのだった。





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