もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
第21回 女性と子どもを登場させる 新支局長の挑戦 5
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季節保育所の子どもたち(1960年、岩手県
玉山村渋民で。中央の石碑には「石川啄木
生誕之地」とある)
朝日新聞盛岡支局長に着任した松本得三氏は、私たち支局員に「社会的な少数者を励ますこ
と、それも新聞の役割の一つだ」と言い、それを編集方針の一環として県版(岩手版)づくりを
進めたが、こうした方針はまた、新聞として社会的弱者にも目を向ける、という方向につながる
ものだった。
当時の社会的弱者といえば、女性と子どもであった。今の時点で考えると信じがたいことだ
が、四十数年前の、一九五八年(昭和三十三年)から六〇年(同三十五年)のころは、女性と子
どもの社会的地位はとても低かった。
なにしろ、女性大臣(中山マサ厚相)が初めて誕生したと騒がれたのが一九六〇年である。ま
た、三淵嘉子さんが女性初の裁判所長(新潟家庭裁判所)になって話題になったのは一九七二年
(昭和四十七年)のことだ。さらに、大城光代さんが初の女性高裁判事(福岡高裁那覇支部)、
寺沢光子さんが初の地方裁判所長(徳島地裁)にそれぞれ就任して新聞ダネになったのが一九七
四年(昭和四十九年)のことである。
そして、男女雇用機会均等法の成立は一九八五年(昭和六十年)まで待たねばならなかった。
そればかりでない。男女共同参画社会基本法の施行はつい最近のこと(一九九九年=平成十一
年)である。
とにかく、私が記者生活をスタートさせたころは、女性の社会的地位はひどく低かった。勤め
をもつ女性はまだ少なかったし、その勤労女性も結婚すれば退職させられるし、同一労働であっ
ても男性よりも賃金が低いというのが当たり前だった。当時の日本は、まさに男女平等は名ばか
りの、男中心の社会といってよかった。
子どもについても、児童福祉法というのがあったが、多くの子どもが劣悪な環境に置かれてい
た。
新聞は「社会の鏡」といわれる。こうした社会的現実を反映して、当時の新聞は一般的に極め
て男性中心であった。紙面に登場するのは圧倒的に男性であって、女性や子どもが登場する機会
は少なかった。第一、記事を書いている新聞記者そのものの圧倒的多数が男性であって、女性記
者はごくわずか。これでは、女性の視点から書かれた記事が少なくなるのは当然だった。
松本支局長は岩手版に女性と子どもを積極的に登場させた。
まず、一九五九年四月一日付から始めた『少女のスタート』。この日から社会生活を始めた女
の子たちを写真入りで紹介した連載もので、銀行員、バス車掌、ウエートレス、裁判所速記者、
理容師、マッチ製造工場労働者、農民らを登場させた。
この年六月には参院選があったが、岩手版では、それに先立って県選出議員候補者を『候補者
との三十分』と題するインタビュー記事で紹介した。候補者は五人だったから、聞き手をつとめ
たのも五人で、うち二人が女性。主婦と文化団体事務局員だった。
この年秋の「新聞週間」では、女性三人(文化団体事務局員、婦人少年室長補佐、証券会社社
員)を招き、新聞への注文を語らせた。
岩手版で連載したエッセーの寄稿者選定にあたっても、主婦ら女性を積極的に登用した。
極めつけは、一九六〇年早々から始めた『いわて おんな』だろう。「岩手の女性像を浮き彫
りにしたい」というのがこの企画の趣旨で、各界の著名人に魅力的な女性を推薦してもらった。
かくして、毎朝、大判の女性の写真と、著名人の推薦文が載った。
登場したのは主婦、県職員、三味線教授、県議会議員、婦人団体会長、短大助教授、バー勤
務、大学生、農民、店員、教師、電話交換手、洋裁学校経営者、茶・華道師範らだった。これま
で新聞には登場したことのなかった女性の素顔が垣間見られ、好評だった。
子どもに関する企画記事も盛りだくさんだった。まず、一九五九年六月に連載した『わが家の
農繁期』。県内各地の小中学生に書かせた、農家の農作業に関する作文である。これは二十一回
に及んだ。
次いでこの年八月には『8・15生れ』という企画を読者に届けた。敗戦の日の一九四五年八
月十五日に生まれた子どもは、この時、満十四歳。中学二年生になっていた。「その成長した表
情を拾ってみよう」と、該当する県内各地の中学生十三人を写真付きで紙面に登場させ、語らせ
た。
六〇年五月、チリ地震津波が三陸沿岸を襲い、死者が出たり、家屋が倒壊するなど大きな被害
が出た。岩手版は災害の実態を報道するとともに、『こども歳時記 津波のあと』と題する写真
付きの企画記事を連載し、子どもたちへの津波の影響を指摘した。
また、その後、『こども歳時記 季節保育所』という企画記事を連載した。季節保育所とは、
農繁期に農作業に追われる親から子どもを預かる臨時の保育所で、毎年、市町村が設けた。連載
では、季節保育所のお寒い実情を伝え、県や国からの手厚い援助を訴えた。
女性・子どもの登場で、岩手版はがぜん、精彩に富む紙面となった。それまでの堅い、武骨な
感じの紙面が、庶民的な感性も併せもつ親しみやすい紙面となった、と私は感じていた。変わっ
たのは紙面だけではなかった。支局の空気もまた華やいだ。支局長が、支局員行きつけのスナッ
クの若い女性、ナナちゃんを可愛がり、彼女が時折、支局に遊びに来て笑みをふりまいたから
だ。ナナちゃんはその後、岩手医大病院の医師と結婚した。
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