もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第19回 権力を監視せよ  新支局長の挑戦 3


支局員と語り合う松本支局長
(左から2人目。1959年)



  新しく朝日新聞盛岡支局長に着任した松本得三氏は、支局員との会話の中で、新聞記者のあり 方について語ったが、その一つが「背広を着てネクタイを締めた人たちの発言よりも、ジャンパ ーを着て長靴をはいた人たちのつぶやきに耳を傾けよ」というものだった。それは、役人ら権力 側にいる人たちの言説をフォローすることも大切だが、市井の庶民の声にも耳を傾けよ、という 意味だった。当時は、「市民」という言葉はまだジャーナリズムでは一般化しておらず、いわゆ る今の一般市民を指す言葉としては、「庶民」とか「民衆」といった表記が使われていた。
 要するに、松本支局長が言わんとしたことは、報道に携わる者は、社会を支配する人間の側の 視点に立つよりも、支配される側の人間の視点に立て、ということだったと思う。したがって、 支局長の権力機関を見る目は厳しかった。そこには「新聞記者たるもの、絶えず権力を監視しな くては」という姿勢が感じられた。

 こんなことがあった。
 一九五九年(昭和三十四年)二月。サツまわり(警察まわり)の記者が「県警本部が出してい る雑誌に選挙の事前運動とまぎらわしい広告が載っている」と支局の会議で切り出した。県警本 部教養課編集の『岩手の警察』二月号に、近く実施される参院選挙地方区に立候補が予想されて いる某氏(当時、全国的に注目を集めていた通信機器メーカーの経営者で県経済界の大物)の会 社広告が掲載され、これを見た現場警官から、時が時だけに非常識ではないか、という声が出て いる、というのだ。広告には、立候補予定者が経営している会社の写真と並べて本人の顔写真、 本人の名前が印刷されているという。
 松本支局長は、それを記事にするよう促した。その結果、二月二十日付の岩手版に「『岩手の 警察』にまぎらわしい広告」「“事前運動”の解釈も」「現場警官から批判の声」という三本見 出しのトップ記事が載った。県警本部長の「この会社の広告は以前にも掲載されており、単なる 営業広告だが、時が時だけにやはりまずいことをしたと思っている。こちらの配慮が足りなかっ たので不用意に掲載されたものだ」との談話も掲載されていた。
 警察批判は、これだけにとどまらなかった。
 この年一月、県警本部教養課が編集した『岩手の重要犯罪――その捜査記録』という本が刊行 された。警察内部で売られたばかりでなく、市販もされた。それは、明治以来、岩手県下で起こ った五十六の重大犯罪を選び、捜査記録や当時の捜査官の体験談、公判記録などを参考にそれぞ れの犯罪を解明したものだった。序文には、正確な資料に基づいた本県の犯罪史を残すととも に、事件の捜査にあたった警察官の労苦を一般に知らせようというのが刊行の趣旨、と述べられ ていた。
 ところが、そこに出てくる犯人は本名または本名に近い名前で書かれていた。このため、本名 に近い名前で書かれた元殺人犯は苦境に追い込まれた。というのも、彼はすでに刑期を終えて出 所し、今は刑務所時代に身につけた仕事を生業として静かに暮らしている。結婚もし、子どもは 小学校に通っている。なのに、この本のおかげで、彼の過去を知る人が現れ、周囲から白い目で 見られるようになったからだった……
 そんな情報をつかんできたサツまわり(警察まわり)記者に、松本支局長は言った。「たとえ 殺人犯でも刑期を務めあげた以上、それなりに罪をつぐなったのだし、このままでは人権侵害に なる。本は直ちに回収されるべきだ」
 担当記者は取材を始め、原稿にした。それは、この年三月四日付の岩手版に載った。「県警出 版の本に批判の声」「“旧悪をあばく恐れ”」「犯罪者の本名を使って」という三本見出しのト ップ記事だった。
 「あのときの松本さんの肩書きのない、ただの人に寄せる心の深さと、権力の座にある人に対 するきびしい目には身のひきしまる思いがした」
 当時のサツまわり記者は後年、『目にうつるものがまことに美しいから――松本得三氏追想・ 遺稿集――』の中でそう書いている。
 
 これには、後日談がある。東京本社社会部が盛岡支局にこう言ってきたのだ。「盛岡支局と県 警本部の関係がうまくいっていないようだが、トラブルの原因は何か。心配した警察庁担当記者 が仲直りのあっせんをしてもいいと言っているが」。破顔一笑、松本支局長がこれを笑い飛ばし たのは言うまでもない。

 松本支局長の目は、警察とか役所とかの公的な権力機構だけに向けられたわけではなかった。 民間の大組織にも向けられた。
 一九六〇年(昭和三十五年)三月、水沢市で「常盤小問題」が表面化した。市立常盤小学校で 校長以下教員全員が異動させられたからだ。同校で教頭的な地位にいた教員の教育方針に不満を もった父母が、この教員を異動させるよう教育委員会に働きかけていた。
 この教員は卒業式で、児童に「蛍の光」を歌わせる代わりに日教組選定の国民歌「緑の山河」 と「しあわせの歌」を歌わせたり、学校に町の名士がきてもいちいち玄関まで出迎える習慣をや めるなど、いわゆる進歩的教育の実践者だった。父母の一部がこれに反発して追い出し運動を起 こし、教委はこれを受けて、結局、教員全員異動という措置をとったのだった。
 岩手版はこの問題を何度も取り上げ、「教員が教員組合の組合員であったにもかかわらず、教 組がその教員を守らなかったのは問題ではないか」といったトーンの批判的記事を展開した。
 当時の岩手県教員組合(岩教組)は日教組を支える御三家の一つといわれたほど強力な労組 で、県内では「泣く子も黙る岩教組(がんきょうそ)」と言われた存在。そう言われたのも、教 員人事について強い発言力をもち、岩教組にそっぽを向かれたら、教委の行う教員人事もストッ プしてしまうからだった。この問題に関する岩教組の見解は「父母に背を向けられたら教育はお しまい。せっかくの進歩的教育も意味はなくなる。何度も注意したんだが……」というもので、 こじれた問題の解決を全員異動に求めたのだった。
 ともあれ、ここにも「労働組合たるものは組合員の人権と利益を守るべきだ」という松本支局 長の理念が貫かれていたように思う。支局長は、民間の自主的組織といえども、ジャーナリズム が絶えず監視していないと官僚化が進み、組織構成員の利益よりも組織温存に走るおそれがある と危惧していたのだ。
 常盤小問題を報道したために、盛岡支局と岩教組の関係は悪くなった。しかし、支局長は意に 介さなかった。                            





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