もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
第18回 名もない人々のつぶやきを聞け 新支局長の挑戦 2
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松本支局長はよく取材先の人たちを招き、食事をともにしな
がら談笑した。左から2人目が松本支局長(1959年夏)
朝日新聞盛岡支局長に着任した松本得三氏は、支局がつくる県版(岩手版)に大変革をもたら
した。その目の覚めるような紙面の変わりようの一端を前回紹介したが、松本氏の赴任は紙面を
根底から変えたばかりでなく、支局員のものの見方、取材の仕方に決定的な影響を与えた。
松本氏が支局長に着任したのは一九五八年(昭和三十三年)の十一月。「朝日」に入社した新
米記者の私が盛岡支局に赴任したのはこの年の四月だったから、私にとっては二人目の支局長で
あった。
前任の支局長には約七カ月仕えたわけだが、その間、新聞記者のあり方、つまり、新聞記者が
よって立つべき考えとか視点とかいうような点について、その口から具体的に諭されたことはな
かった。私は、それを「仕事を続ける中で、自分で体得してゆきなさい、あるいは先輩記者の言
動から学びなさい、ということだな」と理解した。だから、ひたすら先輩記者から学ぼうと努め
た。
その一方で、朝日新聞綱領を読んだ。
一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。
一、正義人道に基づいて国民の幸福に献身し、一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う。
一、真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す。
一、常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風をたっとぶ。
さすがに歴史と伝統のある新聞社の綱領だ。読むたびに報道に携わる者の責任を痛感して身が
引き締まる思いがした。が、駆け出しの新米記者としては、とてもこんな高邁な立場に立てそう
もない。しかし、志して新聞記者になった以上、これにそうよう努力しなくては、と思ったもの
だ。
そんな時に支局にやってきた松本新支局長は、新聞記者のあり方に関しさまざまな語録を私た
ち残すことになる。支局員を集め、記者のあり方について講義したわけではない。私たちが書い
て提出した原稿を添削する時、あるいは雑談の中で、あるいはまた酒席で、記者のあり方につい
て触れたのだった。
その語録で、私が真っ先に思い出すのは「背広を着てネクタイを締めた人たちの発言よりも、
ジャンパーを着て長靴をはいた人たちのつぶやきに耳を傾けよ」というものだ。つまり、県庁の
役人や大組織の幹部の発言に注目することも大切だが、土まみれになって働く農民や日雇い労働
者の声に耳をすませ、という意味だった。
このことに関し、私の後にサツまわり(警察まわり)を担当した当時の盛岡支局員の一人、木
原啓吉氏(木原氏はその後、朝日新聞編集委員を経て、千葉大学教授、江戸川大学教授を歴任)
は『目にうつるものがまことに美しいから―松本得三氏追想・遺稿集―』(一九八二年刊)の中
でこう記している。
「そのころ盛岡地裁の刑事法廷で、野良着姿の老人や婦人が七人、被告席に並んで、聞きとり
にくい東北弁で懸命に訴えている姿を目撃した。県北の山村、小繋(こつなぎ)の住民たちで、
山地主に対し父祖三代にわたって入会権を主張しつづけている人々だった。入会山の木を伐った
ところを森林盗伐の容疑で逮捕、起訴されたのだという。
松本さんはすぐにも小繋にいって取材せよ、といわれた。現地で古老にきくと話は江戸時代の
入会慣行にまでさかのぼり、法律問題もこみいっていて、これは手ごわい取材だなと思った。明
治のはじめの地租改正で南部藩の藩有林の一部が集落の入会山になったものの、代表者が村人に
だまってその山林を山地主に売ってしまった。大正四年、集落に大火があり、人々は家を建てる
ために木を伐り出しにいって山地主に妨害され、初めて山が他人の手に移っていることを知っ
た。以来、入会権存在の確認を求める民事訴訟が度々提起されている。住民は地主派と反地主派
に分裂した。その経過と進行中の刑事裁判との関係、人々の暮しぶりを調べて私は連載記事の形
にまとめた。
ところが原稿に対する松本さんのダメ押しはきびしく、私は何度も返答に窮した。松本さんは
もう一度確かめてこいといわれ、私は再び小繋に行き補足取材をした。こうして書き直した原稿
についても松本さんは一行一行吟味し、ようやく明け方四時、盛岡発の列車便で東京に送った。
あの夜の松本さんの言葉を私は今も忘れない。『ネクタイをしめた人の理路整然とした発言よ
りも、こうした名もない人々のつぶやきのなかに、時代の転換を予告する光り輝く言葉がある。
ジャーナリストたるもの、常にアンテナをシャープにして聞きのがすことのないよう心しなけれ
ばならない』と。それから十年たって全国各地で環境を守る住民運動が起った。その取材にあた
るたびに私は、松本さんのこの言葉をかみしめていた」
この記述からも分かるように、松本支局長の言葉は、海綿に水がしみ通るかのように若い支局
員の心に浸透していったのである。
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