もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第17回 企画記事で読まれる紙面に  新支局長の挑戦 1


新聞休刊日には、支局員一同で旅行をした。左から2人目
が松本支局長(1959年5月5日、花巻市の高村光太郎山荘で)



 閑話休題。
 前回まで四回にわたって、一九五〇年代末の岩手県の実情を紹介したが、話をまた、朝日新聞 盛岡支局で私が経験したことに戻そう。

 私が盛岡支局に赴任したのは一九五八年(昭和三十三年)四月だが、同年十一月に支局長が代 わった。新しく着任したのは松本得三氏。東京本社連絡部次長からの異動だった。当時、四十三 歳。東京に妻子をおいての単身赴任だった。
 この松本支局長の着任が、県版の岩手版に大変化をもたらすことになる。
 岩手版の原稿締め切り時間(岩手版用の原稿を東京本社に送り終える時間)が、当時は午後四 時二十分であったことはすでに述べた。あまりにも早い。これでは、夕方に起きた事件はもちろ ん、夕方まで続く集会や会議の決定内容を翌朝の新聞に入れることができない。締め切り時間が 遅く、深夜の事件まで朝刊に入れることができる地元紙にはとても太刀打ちできない。しかも、 地元紙「岩手日報」は夕刊をもっていた。速報という点では勝負は目に見えていた。
 
 そこで、松本新支局長が打ち出した岩手版づくりの新機軸は、内容で勝負しよう、ということ だった。具体的には、企画記事(続きもの=連載記事)に力を入れようということだった。もち ろん、雑報(一般記事)に手を抜こうということではない。雑報にも力をいれるが、読者に読ま れる、魅力ある企画記事に挑戦してみようという試みだった。
 かくして、岩手版には、次々企画記事がお目見えしていった。
 まず、県内の著名人によるエッセー『岩手さまざま』。作家、歌人、英文学者、演劇集団座 長、公民館長、図書館長、大学教授、高校教員、小学校長、雑誌編集者、保健婦、主婦、農民、 酪農家、野球審判らを登場させ、自由に書かせた。これは、二十三回に及んだ。「面白い」と好 評だったが、支局員が県内のことを理解する上でも役立った。
 次いで『岩手のくらし』。各分野の人物を取り上げて、その仕事と暮らしを紹介する囲み記事 であった。第一回は公民館の職員、二回目は漁業無線局長。
 一九五九年二月には『身近な裁判』という続きものを七回連載した。これは、当時サツまわり (警察まわり)だった私が担当したものだが、第一回の書き出しにはこうだった。
 「わたくしたちは、法律はむずかしいもので、生活とは、無縁なものと考えがちだ。だが、法 律に対する無知から思わぬ損をする場合もあるものだ。そこで最近の盛岡地裁の判決のなかから ひとごととは思われない例やおもしろい例をひろってみた」
 そして、慰謝料、和解、「私生児」、婦女暴行事件などの問題を取り上げた。
 
 企画ものはまだまだ続く。人間にとって幸せとは何かをさぐった連載『オラがしあわせ』。 「政治家とお役人とが、日教組との取り組みに夢中になっているかげに、忘れさられしまったよ うないくつかの教育問題がある」として、高校通信教育や、養護学級、長欠児童などの問題に目 を注ぐよう訴えた『日かげの教育』。四月一日に職場生活のスタートをきった少女たちを紹介し た『少女のスタート』。地方選挙に向けて議員や首長の実態をあばいた『その生態』。選挙戦を 追った『選挙スナップ』。
 五月には、県内著名人が県内各地を訪ね、その感慨をつづった紀行エッセー『旅情』。岩手大 学創立十周年にあたって、同大学で行われていた研究の中から、とくに県民生活に身近なものを 紹介した『身近な研究』。県内各地の小中学生に書かせた『わが家の農繁期』。共稼ぎの夫婦を 追った『共かせぎ』。
 八月には、敗戦の日の一九四五年八月十五日生まれの子どもたちのその後と現況を紹介した 『8・15生まれ』。岩手県民の暮らしを分析した『岩手の貧しさ』。県内労組のリーダーを紹 介した『岩手の労組』。秋が近づくと、各地の神社のお祭りを紹介した『祭り あちこち』。
 十月の新聞週間には、新聞をめぐる話題を取り上げた『しんぶん雑話』。その後は、各界の達 人を紹介した『この道 この人』。著名人による文学エッセー『文学随想』。辺地の学校の実情 を報告した『教育行政の忘れもの』。赤い羽根の季節には『買わされた赤い羽根』。勤労感謝の 日の前後には、額に汗して働く人たちの手を写真で紹介した『手』。岩手の農業の問題点を追っ た『豊作の裏側』。そして、暮れには、支局員全員による『町で拾った話』の連載だった。
 明けて一九六〇年は、まず、岩手の女性像を浮き彫りにする『いわて おんな』。二月には、 農協の実態を解明した『農協診断図』。これは二十回という長期連載で、私が一人で担当した。 三月には『足りない教育費』。四月には、新しく就職した若者を紹介する『職場の一年生』……
 まだある。とても全部は紹介できない。いずれにしても、これらの企画記事により、岩手版は 活気づいて光彩を放ち、朝日ファンも増えた。とにかく、私たち支局員にとっては、まるで目か ら鱗が落ちるような新鮮な経験だった。

 多くは、松本支局長の発案だった。支局長になる前は、東京本社政治部員としての期間が長か った。だから、ものごとを全国的な視野から見てゆくという姿勢、習慣が身についており、それ が岩手版という地方版づくりにあたっていかんなく発揮されたのだと思われる。また、それまで 本紙(全国版)の紙面づくりにタッチしてきたわけだから、その経験が地方版づくりに生かされ たのだろう、と私は思った。
 でも、支局長が独裁的に決め、支局員に命令して書かせたというわけでは決してなかった。支 局長と私たち支局員は、夜、毎晩のように支局の六角机の周りで、あるいはだるまストーブの周 りで、茶わん酒を酌み交わしながら(支局長はあまり飲めなかったが、支局員に付き合った)、 岩手版づくりについて議論した。議論は尽きず、飲み屋に席を移し、そこでさらに議論を続け た。
 そこでは、さまざまなアイデアが出た。支局長が言い出すこともあれば、支局員が提案するこ ともあって、たいがいの場合、「よし、それは面白い。やろうじゃないか」ということになっ た。
 こうした盛岡支局の雰囲気が東京本社にも伝わり、一部の編集局関係者から、盛岡支局は「松 本学校」と呼ばれるようになった。このことが、その後、さまざまな波紋を広げることになる。





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