もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第10回 広く浅く


北上川の川岸に建つ石川啄木の歌碑(わきに立つの
は筆者。1958年8月、岩手県玉山村渋民で)



 「岩垂君、新聞記者に必要なのは“広く浅く”だ。もっとも、“広く深く”ならもっといい が」
 四十六年前、朝日新聞盛岡支局に赴任したばかりのころ、先輩記者の一人はある時、さとすよ うに私に言った。要するに、新聞記者にとって肝要なのは、狭くて深い専門的な知識ではない。 それよりも幅広い分野に対する素養を身につけるべきだというわけである。
 先輩がそう助言してくれた理由は、支局勤務を続けてゆくうちに次第に分かってきた。
 なにしろ、新聞記者はすぐに何でもこなさなくてはならない。森羅万象、まさにあらゆること に突然出くわしたり、持ち込まれることがある職業である。地方支局勤務の場合はとくにそう だ。
 だから、「それは私の専門外だ」とか「そのことには私は素人なので」とか「それは私の好き な分野ではないので」などと言っておれない。限られた時間の中で取材し、読むにたえる原稿に 仕上げることが要求される。それゆえ、どんなことに遭遇しても、それに対応できる一定の知識 を身につけていることがどうしても必要なのだ。

 幅広い知識を身につけるにはどうしたらいいか。やはり、勉強する以外にない。
 勉強にもいろいろあるはずだ。本を読むこともその一つだろう。が、自分は学者でなく新聞記 者なんだから、フィールドワークで見聞を広めることにしよう。
 まず、仕事の舞台である岩手県をもっと知らなくてはならないと考えた。で、できるだけ各地 を訪ねてみることにした。独身だから、休日は時間があった。だから、休日を利用して出かけ た。
 最初に訪ねたのは「渋民」である。わずか二十七歳で夭折した明治の歌人・石川啄木の故郷 だ。
 盛岡駅から北へバスで四十分。田んぼのなかに貧しい感じの農家が点々とする寒村の停留所で 降りると、そこが渋民だった。かつては渋民村といったが、町村合併で岩手郡玉山村渋民となっ ていた。バスが通るメインストリートも未舗装。いまでは観光客が必ず訪れる石川啄木記念館も まだ建っていなかった。
 バス停から三十分ほど田んぼの中の道を歩くと、北上川を見下ろす断崖の上に歌碑が立ってい た。
 「やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」
 啄木を慕う村人や全国のフアンによって建立された。その前に立って思わず目を見張った。碑 の西方に雄大な山麓を広げる岩手山の雄姿、東方に優美な姫神山が望まれたからだ。まさに絶景 であった。
 碑文を見ていると、「石をもて追はるるごとく」ふるさとを出た啄木の望郷の念と愛着が、私 の胸を満たした。渋民を訪ねたことで、啄木と彼を生んだ岩手への理解が少しばかり深まったよ うな気がした。
 次いで訪ねたのが、平泉だ。いわずと知れた藤原三代(清衡、基衡、秀衡)によって建立され た寺院群である。
 平泉は岩手県の南部、宮城県境に近いところであり、盛岡から列車で二時間余もあった。時間 がなかったから、初代清衡が建てたとされる中尊寺だけを見学した。薄暗い杉の並木の奥に金色 堂があった。平安時代に、京都から遠隔の地であったこの地に一世紀にわたって栄えた藤原三代 の栄華に感嘆した。
 金色堂のわきに芭蕉の句碑があった。「夏草や兵どもが夢の跡」
 小岩井農場も訪ねた。明治二十四年(一八九一年)、日本鉄道会社副社長の小野義真、三菱社 社長の岩崎弥之助、鉄道庁長官の井上勝の三人によって創業された農場で、三人の頭文字をとっ て命名された。盛岡の西の岩手山麓に広がる九〇〇万坪。高いポプラ並木に延々と続く牧草畑。 そこで草をはむ乳牛の群れ。私の郷里・信州ではみられない、壮大にして広大な農場に私は声を 失った。まるで日本離れした風景を見るようだった。
 宮沢賢治はここを舞台にいくつかの作品を書いた。その舞台を実際に踏みしめたことで、賢治 の作品世界に一層興味を覚えた。
 
 各地を訪ね、岩手の自然、風土、そこに住む人びと生活をこの目で見ることと併せて心がけた のは、できるだけ多くの人に会って話を聞くことである。
  自分の持ち場で知り合いができたら、その人から話を聞く機会をつくる。役所の人だったら、 その人のデスクのわきに座り込んで、仕事の内容、最近はその仕事でどんなことが課題となって いるのか、などを聞く。街の中で知り合った人なら、自宅を訪ねて、その人の仕事について、あ るいは街の歴史や当地の習慣や風俗について話を聞く。
 こうして、私は実に多くの人に実に多くのことを教わった。まさに「耳学問」であった。「新 聞記者だ」と名乗れば、たいがいの人は会ってくれる。これは新聞記者だけに許された特権であ る。 私は、この特権により、さまざまな知識を得ることができた。それはうれしく、楽しく、 わくわくするような興奮をともなう経験であった。
 「新聞記者を三日やったら辞められない」。先輩記者が、酒の席でもらした言葉だったが、私 もまたそう思うようになっ た。





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