もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
支局には、取材用の車が配置されていた。
手前は筆者(1958年、盛岡市岩山で)
先輩記者からたたき込まれた新聞記者の基本の一つが「足で書け」であったことは前回触れ
た。つまり、電話に頼らず、事件・事故だったら、現場に飛べ。談話をとるんだったら、その人
に直接あって話を聞け、というのだ。
それを肝に銘じていたから、事件・事故を察知したら、私はできるだけ現場を踏むように心が
けた。
盛岡支局に赴任してサツまわり(警察まわり)を始めた直後のことだ。夜、支局にいたら、消
防車が鳴らすサイレンが響きわたった。火事だ。消防署に電話すると、盛岡市内の太田というと
ころで民家が燃えているという。
自転車で支局を飛び出した。運転免許がなかったから、支局の車は使えなかった。
太田といえば、盛岡市の中心から西方の郊外だ。盛岡市街を過ぎると、田園地帯になった。行
けども行けども真っ暗な田んぼである。そのうえ砂利道だ。小石をはじき飛ばしながら自転車の
ペタルをこいでもこいでも火事らしい現場は見えてこない。地元の人に聞こうにも、人ひとりっ
こ通らない。
疲れ切って、暗い路傍に何度も立ち止まった。そして、「来なければよかった」と悔やん
だ 。第一、夜の、とっくに岩手版の締め切り時間を過ぎた時刻での火事だったから、明日、盛
岡署に電話をかけるか、同署まで出かけて、火事の概要を聞けばそれで事足りるはずであった。
ここで引き返しても、だれかにとがめられることもない。
引き返そうと何度も思った。しかし、その度に、私を引き留める声があった。
「現場に行こうと飛び出してきた以上、どんなことがあっても現場までたどり着くべきだ」
「目標を定めた以上、逃げてはいけない」
「つらいからといって途中であきらめるのは新聞記者として落第だ」
思い直してなお自転車を走らせると、ようやく火事現場が遠方に見えてきた。もう火焔は消
え、煙だけが全焼した家屋から立ちのぼっていた。
煙るだけの、さえない現場写真を撮り、帰途についた。支局に着いた時は午後十時を過ぎてい
た。支局に残っていた先輩記者に「太田に火事があったので行ってきました」と報告すると、彼
は「太田まで自転車で行ってきたのか」と驚いた。
調べたら、火事現場は市の中心部から片道六、七キロの距離。自転車ではちょっとしんどい距
離だったことは確かだった。
その後、三十七年間にわたる記者生活の中で、取材に向かう途中、「しんどいから引き返そう
か」と迷ったことが何度もあった。そのたびに、盛岡支局時代の、火事現場に向かうためひたす
ら自転車を走らせた時のことを思い起こし、「引き返すな、前に進め」と、自らを叱咤激励した
ものだ。あの暗い夜の体験が、新聞記者としての私の原点となっていたのだった。
ともあれ、現場を踏むことでいろいろな経験をした。
ある夜、盛岡市内を通る国鉄山田線で人身事故があったというので、現場に駆けつけた。二本
の線路を駅構内の街灯が淡く照らしている。その灯りを頼りに目をこらすと、線路にそって何か
が散乱している。近づいてみると、足や腕だった。列車に飛び込み、切断された人の遺体の一部
だった。
それまで、そうしたものを見たことがなかった。それから数日間というものは、マグロの刺身
を口にすることができなかった。
北上川の濁流も忘れられない。支局に赴任した年の一九五八年七月、台風十一号が東北地方一
帯に豪雨をもたらし、岩手県内でも北上川が増水した。「北上川が氾濫しそうだ」というので、
盛岡駅前の開運橋まで見に行った。茶色の濁流がごうごうと音をたてて流れ下ってゆく。もう少
し増水すると、川岸からあふれそうだ。
このころの北上川の流水は平日でも茶褐色だった。上流にある松尾銅山の鉱毒が流れこんでい
たからだ。それが、怒濤のように荒れ狂いながら、流れてゆく。幸い、盛岡では溢水しなかった
が、北上川支流の雫石川で堤防が決壊したり、下流の県南地方では田畑が冠水する被害が出た。
それまで、大きな河川の増水など見たことがなかった。それだけに、雨による大河川の増水の
すさまじさ、恐ろしさ、凶暴さに圧倒された。水害というものの一端に触れた思いがした。
いま顧みると、現場を踏むと、必ず新しい「発見」があったという気がする。刑事にとって、
犯罪の犯行現場は犯人を割り出すための手がかりを見つけだせる宝庫といわれるが、新聞記者に
とって現場は新しいことを知るための宝庫と言えるようだ。
|
|
|
|