もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第3部 編集委員として
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一九九二年に東京で国際協同組合同盟(ICA)の大会が開催された背景には、日本での生協の飛躍的な成長が世界の協同組合関係者の注目を集めたという事情があったが、日本の生協が目覚ましい発展をとげるのは一九七〇年代から八〇年代にかけてである。その驚異的な成長を支えていたのは地域生協(市民生協)であった。
日本で生協が誕生したのは一八七九年(明治十二年)で、東京と大阪で創立されたのが最初だった。その後、各地に広がったが、日中戦争から太平洋戦争にかけて多くの生協が左翼勢力の影響下にあるとされて警察による弾圧、介入を受け、解散させられた。
戦後になると、戦後復興の動き中で生協再興の機運が高まり、雨後のタケノコのように全国各地に生協が生まれた。それは労働組合が中心になって職場や地域につくったものが多かった。いわゆる職域生協である。
しかし、その後の日本における生協の目覚ましい発展の中心的役割を担ったのは、職域生協ではなかった。それは、新たに登場した、地域に根ざした地域生協(市民生協)だった。つまり、地域を基盤とする市民たちの生協だった。
そうした市民生協を生み出したのは、大学生協の活動家だった。大学生協とは大学に在学する学生と教職員を組合員とする生協だが、実際の経営に当たっているのは昔も今も学生である。その学生たちが、大学の外に出て、市民生協の創設に乗り出したのだった。その学生たちのうち市民生協でトップを務めたあと、生協の全国組織、日本生活協同組合連合会(日本生協連)で幹部になった人たちも少なくない。その人たちの中には、市民生協誕生の経緯について書き残している人もいる。
例えば、田中尚四氏。東大在学中から生協活動に参加し、大学生協連専務理事、コープとうきょう理事長などを経て、一九九三年から二〇〇三年まで日本生協連副会長を務めたが、退任後の二〇〇五年にコープ出版から刊行した『生協との半世紀』でこう書いている。
「60年代からの高度成長の中での日本社会は大きな変貌をとげ、新たな地域生協づくりの条件が生まれてきた。首都圏など大都市圏や新産業都市への人口集中がすすんで、地域における新たな矛盾や問題点が顕在化する中で、農山村の過疎化が進んで、地域社会の在り方が問われるところとなった。また、消費者の所得が増加し、生活手段の近代化が進む一方で、恒常的な物価の値上がり、公害や食品安全などの問題の深刻化が見られた。その結果、これらの矛盾に対する地域住民運動が強まるところとなった」
「新しい生協づくりの流れにおいては、住民運動組織とのつながりや、既存の労働運動、政治組織などでのかかわりも部分的にはあったものの、おおむね自立した組織集団として成長しようとしたことが特徴的であり、これを受けとめてもっとも大きな力を発揮したのは、全国の大学生協の若いエネルギーだった」
「当時の大学生協の状況を見ると、50年代後半から60年代にわたって、全国の主要大学において生協としての組織と事業を確立しつつあった。そして、大学生協に従事する専従役職員や学生役員の中に、日本の生協運動の発展に貢献し地域生協づくりを身をもって進めようと言う機運が、全国的に形成されてきた。また、そのめざすところは『大学生協の地域化』ではなく、自主的な生協の組織化を支援する立場をとるという適切な選択がなされたことが見逃せない」
東北大学生協専務理事を務めた後、みやぎ生活協同組合の創設に奔走し、その専務理事から日本生協連専務理事に就任、その後、コープさっぽろの理事長、日本生協連副会長になった内舘晟氏(故人)は『私家版 私の履歴書』(二〇〇四年)の中で次のように記している。
「一九六〇年代の後半になって、全国の大学生協の中に、地域生協設立運動が盛り上がった。それまでの生協運動は労働組合運動が主導する職域生協の運動であり、市民が主体になる地域での運動は、神戸、横浜、福島、静岡、鶴岡なとですすめられていたが生協運動の主流とはなりえていなかった。『働く者は生産点で搾取され、消費点で収奪される』消費生協が生産点で戦う労働運動と連携し、日常消費の主体者である主婦の目覚めを高め、消費点における収奪を防ぐことが出来るならば、資本家の横暴を押さえ、働くものが支配する社会を作るのに役立つに違いない。こう考えた全国の大学生協の活動家仲間は、札幌、埼玉、京都を皮切りに、地域生協設立活動に乗り出した。続いて、盛岡、仙台、東京、名古屋などで、一九七〇年までに大学生協主導の地域生協が設立され、七十年代の大爆発となった」
コープさっぽろが一九九五年に発行した『コープさっぽろ30年の歩み――コープさっぽろ30年史――』にはこんな記述がある。
「北大生協が地域生協を設立する思想的基盤は、さかのぼる1960年の『安保闘争』にあった。いわゆる『60年安保』と言われる未曾有の大衆的政治運動は、結果としてその政治目標においては挫折したものの、当時の北大生協の学生活動家たちにとって、民衆の横断的組織の可能性、その無限のエネルギーなどについて大きな確信を与え、また運動を大学の中だけで考えるのではなく、地域の中へ大衆の中へ入り込んでいくことの重要性を教えたのである。60年安保闘争後、当時の学生運動の流れが、次第に政治的に先鋭化し、権力に対峙する方向を強めていったのに対し、大学生協運動の流れは『草の根運動』の方向性を明確にし、大学生協運動の先進グループの一員としての北大生協は学外施設を有していたこともあってその動きを一層早めた」
これ以上の詳しい説明は不用だろう。要するに、日本を震撼させた六〇年安保闘争を頂点とする戦後最大の激動の時代に「革命」や「変革」を目指して大学生協で活動していた学生たちが、安保闘争後、新たな「変革」を目指して大学周辺の地域に進出し市民をメンバーとする生協をつくりあげていったということだろう。大学生協が、市民生協誕生の母胎になったのだ。
いずれにしても、しばらく前まで、あるいは今日も、日本の生協陣営で枢要な地位にあった人には大学生協の出身者が多い。すでに紹介したように田中尚四・元日本生協連副会長は東大生協、内舘晟・元日本生協連副会長は東北大生協の出身だが、ほかにも、竹本成徳・元日本生協連会長(同志社大生協出身、以下、カッコ内は出身大学生協)、勝部欣一・元日本生協連副会長(東大生協、故人)、森定進・元日本生協連副会長(早大生協、故人)、福田繁・元日本生協連専務理事(東大生協)、田辺凖也・元日本生協連副会長(名古屋大生協)、石田静男・元日本生協連副会長(鹿児島大生協)、伊藤敏雄・元日本生協連専務理事(北大生協)、大友弘巳・元日本生協連専務理事(埼玉大生協)といった人々がいる。現在の日本生協連会長の山下俊史氏も東大生協出身である。
日本生協連の理事クラス、全国各地の市民生協の理事長、専務理事クラスとなるともう数え切れないくらいだ。全国に展開する生協陣営の人脈の中で、大学生協出身者はさながら一大山脈を形成しているといってよい。
(二〇〇八年七月三十一日記) |
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