もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第146回 生協は女性にとって夢のキャンパス
生協のイメージアップについて話し合う組合員たち(1991年6月27日、静岡県掛川市で開かれた全国組合員活動交流集会で) 




 一九七〇年代以降の日本で驚異的な成長を遂げた生協を支えていたのは、全国各地に誕生した地域生協(市民生協)だった。
 日本生活協同組合連合会(日本生協連)を構成する生協の主力は、昔も今も購買生協だ。同連合会によると、連合会に加盟する購買生協の組合員は一九七〇年度には二〇三万人で、うち地域生協の組合員は七九万人だった。つまり、購買生協内での地域生協組合員の割合は約四〇%だった。それが、一九九〇年度には購買生協の組合員が一一七九万人、うち地域生協組合員は九一六万人になった。地域生協組合員の割合は約七七%にはねあがったわけである。別な統計で、この二十年間における生協組合員の増加ぶりをたどってみると、購買生協全体の組合員数が約六倍となったのに対し、そのうちの地域生協の組合員はなんと十一倍の伸びであった。
 七〇年代から八〇年代にかけての生協組合員の爆発的増加の内実は、実は地域生協とその組合員の著しい伸長にあったといってよい。

 それでは、この時期に地域生協の組合員になった人々とはどんな人たちだったのだろうか。
 一言でいえば組合員の大半が女性、それも専業主婦が多かった。一九九〇年に日本生協連が行った「全国生協組合員生活動向調査」によれば、組合員の九五・七%が女性で、男性はわずか一・九%。また、日本生協連が一九七九年に行った調査では、専業主婦が組合員の五六%を占めていた。年齢的には三〇歳代から四〇歳代が中心で、子どもは一人から二人。要するに、子育て世代の専業主婦が生協運動の主役であった。
 
 とにかく、女性が多かった。そのことを強烈に印象づけられたのは、一九九一年六月に静岡県掛川市の「つま恋」で開かれた日本生協連主催の「第十五回全国組合員活動交流集会」だ。全国各地の組合員が一堂に会して日ごろの活動を報告し合い、今後の活動に生かそうという一泊二日の交流会で、全国から約八〇〇人の組合員が参加した。
 全体会をのぞいて驚いた。ほとんど全員が女性だったからだ。男性は日本生協連の役員と担当部局の職員、それに私のみ。全体会の後、参加者は七十五の分散会に分かれて話し合いを続けたが、どこをのぞいても女性ばかり。どこも女性のパワーがみなぎっていて、会場の片隅で傍聴させてもらった男性の私はただただ圧倒されるばかりだった。
 それに、交流集会から感じさせられたものといえば、熱心さと生真面目さだった。それまで私が取材してきた大衆集会といえば労組の大会か平和団体の集会だったが、それらはいずれも男性中心の集まりで、その雰囲気を一言でいえば、なんとなく雑然としていて時には喧噪極まりなく、集中力に欠けていた。労組の大会など、騒然たる雰囲気に包まれ、途中退席する人も珍しくなかった。だから、途中で退席する人もなく、静かな雰囲気の中で真面目に熱心に討議する女性ばかりの集会に目を見張ってしまった。そうした光景から、生協運動に注がれる女性たちのエネルギーがまことに底深いものであることを私は実感したのだった。 

 この時期、子持ちの三十歳代から四十歳代の専業主婦たちは、何を求めて生協に結集して行ったのだろうか。
 生協問題研究所発行の『生協組合員のくらしと意識』(一九八六年版)によると、生協組合員に生協加入の動機・理由を聞いたところ、「品質の良い商品が手に入る」八四・五%、「CO−OP商品が手に入る」三四・一%、「安い商品が手に入る」二一・一%、「主旨に賛成したから」二〇・六%、「おつきあいで」一四・二%など(複数回答)となっている。つまり、食品の「安心・安全」を求めて生協の組合員になった女性が多かったということだろう。
 これには、社会的な背景がある。
 日本は、六〇年代から七〇年代にかけ世界でもまれにみる高度経済成長を遂げた。それにともなって市場に出回る食品も多様化し、新しい食品が店頭に溢れた。このため、食品公害問題や、加工食品の不当表示問題、有害添加物問題が続発し、社会問題化した。こうした問題に敏感に反応した生協陣営は食品公害、不当表示、有害添加物の追放に精力的に取り組み、そのうえ、有害な添加物を含まない食品を開発しCO−OP商品として売り出したから、食料品の安全に不安を感じていた、家庭の台所を預かる主婦たちの心をとらえた。こうして、主婦たちが「安全・安心」な食品を求めて次々と生協に加入して行ったのだった。

 生協に加入した主婦たちは、自分が住む地域で班をつくって商品の共同購入をしたり、自分たちの生協がつくった店舗を利用した。生協側は、主婦たちの要望に応えた商品の開発にも力を入れた。その結果、各地の地域生協で、一般のメーカーがつくった商品、いわゆるナショナルブランドの商品とは異なる独自のCO−OP商品が生まれた。
 例えば、ちばコープ(千葉市)は刃の部分にいくつもの丸い穴が開いた包丁を売り出したが、これは組合員の提案を受け入れて開発した商品だった。「刃のところに穴が開いていた方がよく切れる」という声が主婦組合員から寄せられたからだった。そのほか、同コープはオリジナル商品「CO・OP満点コロッケ」を売り出したが、これも「他の生協のコロッケがとてもおいしかったので、ちばコープでも扱って」という主婦組合員からの一言がきっかけだった。

 ところで、組合員が生協に求めていたのは「安全・安心」な商品ばかりではなかった。生協がさまざまな社会運動に取り組むことを望む組合員もまた少なくなかった。このため、生協側もそうした組合員のための活動の場を設けた。それゆえ、組合員は平和、国際友好、環境保護、福祉、文化などといった分野で活動を行うことができた。
 日本生協連が主催する「全国組合員活動交流集会」もこうした実情を反映したものだったと言える。一九九一年一月に千葉県幕張メッセで開かれた「第十四回全国組合員活動交流集会」では十九のテーマ別分科会が設けられたが、その内訳は「商品」四、「環境」四、「平和」二、「食品の安全」「産直」「文化」「福祉・助け合い」「子ども」「家計」「税・物価・エネルギー」「まちづくり」「国際・まちづくり」各一だった。

 生協組合員が商品に関する活動ばかりか、平和や環境問題に関する活動に関心を示したのには、それなりの理由があったと私は思う。
 七〇年代から八〇年代にかけての時期は、米国とソ連という二大超大国が核軍拡競争をエスカレートさせていた時代であり、世界的な核戦争が起きるのではという深刻な危機感と不安が市民たちをとらえていた。また、企業活動などにより内外で地球環境の破壊が進み、環境保護への関心が急速に盛り上がりりつつあった時期でもあった。生協に結集する主婦たちもこうした状況に敏感に反応し、行動を起こしていったものと思われる。

 それから、この時期に多くの主婦が生協に加入していった背景には、主婦を取り巻く環境の劇的な変化と、それにもなう主婦たちの意識の変化もあったのではないか。
 七〇年代から八〇年代にかけての時期は、日本の社会が大きく変わった時期である。それをもたらしたのは経済の高度成長だったが、その影響は国民の家庭生活全般に及んだ。家庭は電化され、主婦たちは従来の過重な家事労働から解放された。子どもたちも大きくなり、手がかからなくなった。こうして、とくに専業主婦たちに余暇が生じた。
 それまでの専業主婦は家庭に閉じこめられ、家事と子育てに追われる存在だった。自分の能力を生かせる職業につきたい、社会に出て好きな活動をやってみたい、と願っても、自分を取り巻く伝統的な環境がそれを許さなかった。主婦たちのエネルギーは外に向かって発揮されることはなかった。が、社会構造の変化によりようやく自分の時間が持てるようになったのだ。
 多くの専業主婦たちは、ついに自立と自己実現が可能な時がきた、と考えたにちがいない。そして、身近なところで自己実現できる舞台を探した時、生協こそ格好の舞台と主婦たちの目に映ったのではなかろうか。こうして所を得た主婦たちは、生協という舞台でのびのびとエネルギーを発揮するようになって行ったのだろう。私にはそう思えてならなかった。だからこそ、私は、生協の飛躍的な成長は日本社会の構造的変化の表れとみて、その実態を積極的に取材し、報道したつもりだった。新聞記者の役割は、社会の根底で進んでいる変化をいち早くとらえ、それを広く伝えることにあると思っていたからである。
 この時期、私は何人かの知人が「うちのカミサンが生協狂いになってしまって。おかげでオレは家ではすっかりかまってもらえなくなった」と“嘆く”のを聞いたものである。
 
 生協の実情に詳しいノンフィクションライターの小田桐誠氏は、一九九四年、『生協は夢のキャンパス』と題する著書をコープ出版から出版した。おかやまコープ(岡山市)の二十年にわたる歩みをたどったドキュメンタリーだが、この題名を見て、私は「実に見事なネーミングだな」と感心した。この時期、生協組合員、とくに女性組合員にとって生協はまさに「夢のキャンパス」なのでないか、と私もまた感じていたからである。
                                       (二〇〇八年八月十三日記)

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