もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第128回 日本脱出――世界の秘境・チベットへ@
東北大学日中友好西蔵学術登山隊人文班のメンバー(左から2人目が色川大吉班長、左端が筆者。1986年4月16日、西寧市のホテルで)
人文班は2台の車に分乗して旅を続けた(旧入吐蕃道の入り口で)




  目を閉じて 何も見えず
  哀しくて 目を開ければ
  荒野に向かう道より
  他に見えるものは無し
  ……………
  我は行く 蒼白き頬のままで
  我は行く さらば昴よ

 去る十月九日の夜、NHKテレビから、谷村新司の「昴」が流れてきた。火曜日夜の定番「歌謡コンサート」。テレビ画面に目をやると、谷村新司自身が朗々と歌っていた。
 
 この歌を聴くと、私の脳裏にとっさになんとも形容しがたいほど峻厳にして荒涼たるチベット高原の光景がよみがえってくる。
 私は、一九八六年(昭和六十一年)、中国のチベット高原をグループで自動車旅行した。一木一草もない、暗褐色の岩石と茶褐色の砂礫だけの高原。道もなく、目に入るのは、ただ前方に向かって果てしなく続く、一筋の轍だけ。私たちより前に高原を通った車の跡である。
 私たちは皆、無言だった。青白い顔をしたり、頬がこけ無精ひげの者もいた。車による高地の長旅に疲れ果てていたからだ。その時だ。「昴」のメロディーが車内に流れた。だれかが、旅の途中で聴こうと音楽のカセットテープをいくつか日本から持参してきていて、その一本を再生したのだった。
 「荒野に向かう道より 他に見えるものは無し」「我は行く 青白き頬のままで」……「チベット高原をひたすら進む今のわれわれの姿そのものではないか」。その時、高山病に苦しむ私をとらえたのは、そういう感慨だった。以来、私は、チベット高原行に一番ぴったりする曲は「昴」だ、と思うようになった。

 登山家でもなく、チベットに関する研究家でもない私が、なぜチベットなどへ行くことになったのか。
 一つは、報道ということに対する私の考え方に基づく。
 新聞記者という職業柄、私はそれまで、一般の人がなかなか行けないところに行こうという思いを抱いて仕事をしてきた。というのは、一般の人がなかなか行けないところへ行き、その知られざる土地のことを広く紹介することも、新聞記者の一つの使命と考えていたからだ。だから、それまで、できるだけさまざまな国や地域に挑戦したつもりだった。例えば、シベリア(ソ連)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ベトナム、リビア、ミクロネシア……。
 当時、一般的に言って、私たち報道に携わる者にとって“三つの秘境”があったように思う。チベット(中国チベット自治区)、北朝鮮、カンボジアだ。いずれも、それぞれの国の政府が西側の報道陣に門戸を閉ざしていて、いわば、私たちにとっては、なかなか入れない秘境であった。とりわけチベット自治区は、中国政府が外国人に対しずっと鎖国政策を続けていて、世界でも最も神秘的な未知の地域であった。私はすでに北朝鮮に入国した経験があったから、機会があればぜひチベットへ行ってみたいと思っていた。

 いま一つは、当時、私の中で日ごとに強まりつつあった「日本脱出願望」である。
 私をそういう思いに駆り立てたのは、深刻な「人間不信」だ。具体的には、ついに再分裂といった事態にまで立ち至った原水爆禁止運動の紛糾の取材を通じて私が陥った人間不信だった。
 すでに述べたように原水爆禁止運動で「八四年問題」といわれる混乱が生じたのは一九八四年だ。運動団体の一つで共産党が強い影響力をもつ原水協の中心にいた役員に対し、共産党が「独断専行があり、そのうえ、原水禁・総評に屈伏、追随した」と批判したことがきっかけだった。原水禁とは、社会党・総評が影響力をもつもう一つの運動団体であった。
 原水協の役員、事務局員は、共産党側につく者と、同党から批判された役員につく者とに分かれた。党側についた人たちは、党から批判された役員を「役員を辞めよ」「世界大会に参加するな」と攻撃した。それは、まことにすさまじかった。きのうまで「平和」のために長年一緒に活動してきた仲間を、一転して、公開の場で非難する。その変わり身の速さに驚くとともに、この人たちは人間的な感情とか良心というものを持ち合わせているのだろうか、と思わざるをえなかった。それは、「平和」実現を掲げる団体にはふさわしくない、何とも異常な光景だった。
 そんな光景を、取材の立場から眺め続けているうちに、私は、つくづく人間というものが嫌になってしまった。人間に対する失望と幻滅。そして、私の中で「海外、それも人間のいないところへ行きたい」という願望が次第に強くなっていったのだった。

 秘境へのあこがれと日本脱出願望と。チャンスは意外なところからやってきた。そのことを思い出すと、人間の一生には不思議なことが起こるものだな、との思いを深くする。
 それは、一九八五年八月末のことだ。その日、東京・飯田橋の法政大学で、自由民権百年全国実行委員会の解散の集まりが開かれた。この実行委員会の活動についてはすでに紹介したのでここでは触れないが、その役割が終わったので、解散の運びとなったのだ。
 私はこれを取材すべく会場に出かけて行ったのだが、そこで、実行委員会代表委員の色川大吉氏(歴史家)にお目にかかった。忙しそうなそぶりの色川氏に私は尋ねた。「先生、今度は何で忙しいんですか」。すると、こんな言葉が返ってきた。
 「チベットへ行くんだ。それで忙しくてね」
 その瞬間、私は思わず叫んでいた。
 「先生、私も連れて行ってください」
 自分でも驚くほど、私の反応は速かった。それというのも、その時期、私が「秘境へのあこがれと日本脱出願望」に浸っていたからだろう。だから、「チベット」と聞いた瞬間、「私も連れて行ってください」という言葉が、反射的に鉄砲玉がはじけるように飛び出したのだ。
 これが、チベット行きの発端であった。

 色川氏によれば、東北大学山岳部とそのOBの組織である「山の会」はかねてから中国の山に登りたいと願っていた。東北大学側が中国の登山協会に申請書を出したのは一九六四年。それから実に二十一年後の八五年七月にチベット高原の最高峰で未踏峰のニェンチンタングラ峰(チベット自治区、七一六二メートル)への登山許可が下りた。そこで、東北大学山岳部と「山の会」が、このニェンチンタングラ峰の初登頂を目指すことになったのだという。
 登山の準備を進める過程で、「チベットはなかなか入れないところ。せっかくの機会だから、登山ばかりでなく、学術調査、学術交流も併せてやりたい」との声が大学内外から出て、結局、登山隊、学術班、学術交流団の三隊を派遣することになった。しかも、学術班は人文班と植物班の二班からなる。
 色川氏は学術班と人文班の班長をつとめるのだという。色川氏は東大の出身だが、旧制高校は二高(戦後、東北大学と合併)で、しかも山岳部にいた。だから、いまでも「山の会」のメンバーという。そんな関係で、東北大学から「学術班長をやってくれないか」と頼まれたうえ、チベットでの調査は色川氏自身が長い間あたためていたテーマでもあるので引き受けたとのことだった。

 色川氏によれば、同氏がかねてからあたためていたチベットでの調査の眼目は、「もう一つのシルクロード(絹の道)」の検証だという。
 シルクロードとは、太古以来、アジアとヨーロッパ、北アフリカを結んでいた東西交通路のことで、一般的には中国の北西部、現在の陝西、甘粛付近から新彊ウイグル自治区のタリム盆地を通り、ロシア(旧ソ連)、中国、インド、パキスタン、アフガニスタンが国境を接するパミール高原を越える道を指す。色川氏によれば、これとは別に中国――チベット――インドを結ぶ文明交流路があったのではないか、というのだ。いわば色川氏の仮説だが、同氏としては、これを現地で確かめてみたいという。ということで、人文班の中心テーマは、「もう一つのシルクロード探索」ということになった。
 
 私が色川氏らに同行するためには、いろいろな難関を乗り越えねばならなかった。最大の難関は、東北大学側が、同行記者を受け入れる条件としてニェンチンタングラ峰登山への朝日新聞社の後援を持ち出してきたことだった。曲折があったものの結局、朝日新聞社は後援を決定し、私は人文班の同行記者として派遣されることになった。「ついにチベットへゆける」。私の胸は高鳴った。天に昇るような気分だった。

 八六年三月十日、登山隊の本隊が仙台を出発。四月九日には、私たち人文班(正式名称は東北大学日中友好西蔵学術登山隊学術班人文班)が成田を出発した。人文班は私を含め七人だが、成田発のときは六人。もう一人は山折哲雄・国立歴史民族博物館教授(現国際日本文化研究センター名誉教授)で、山折教授はチベット自治区の区都・ラサ市へ直行し、現地で私たちと合流することになった。
 私たちは、北京に到着後、ここに一泊、急行列車で青海省の省都・西寧市へ向かった。車内で二泊し、四月十二日、西寧駅に着いた。ここで準備を整え、同十六日、青蔵(青海、チベット)高原に向けて旅立った。一行は日本側六人、中国側スタッフ五人の計十一人。四輪駆動車と小型トラックに分乗しての出発だった。日本側は以下のメンバー。
 班長 色川大吉(東京経済大学教授)
 班員 柴崎徹(宮城県環境保全課)、河野亮仙(副住職、大正大学大学院)、奥山直司(東北大学文学部助手)、松本栄一(フリーカメラマン)
 同行記者 岩垂弘(朝日新聞編集委員)

 私にとっては、ついに未知のチベットへの扉が開かれたのだった。
                                     (二〇〇七年十月二十八日記)

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