もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第127回 八四年問題――共産党の狙いは何だったのか

日本共産党史の表紙




 一九八四年四月四日付の共産党機関紙「赤旗」に掲載された論文を皮切りに、共産党によって展開された、原水禁(社会党・総評系)批判、ひいては原水協(共産党系)執行部の吉田嘉清、草野信男氏らへの批判は、ついに八六年になって統一世界大会の開催不能、原水爆禁止運動の再分裂という事態をもたらしたが、この時期、共産党はなぜ、こうした行動に出たのだろうか。

 当時の共産党は、宮本顕治・中央委員会議長が絶対的な権限をもっていた。すべての面で共産党を指導していたと言ってよい。したがって、「八四年問題」と呼ばれる、原水爆禁止運動での一九八四年から八六年にかけての一連の事態で共産党側で主導的役割を果たしたのも宮本議長だったとみて間違いない。結果的にみて、原水爆禁止運動を再分裂に導いたのは宮本議長だったと言って差し支えないだろう。

 宮本議長の真意はいまもって分からないが、手を打たないと、運動が総評に乗っ取られ、運動に対する共産党の影響力が著しく後退すると懸念したのであろうか。当時の共産党には「日本の原水爆禁止運動を主導しているのは我が党」「原水協は原水爆禁止運動の本流」という意識が強かったから、宮本議長としては、運動の主導権を総評に奪われると思ったのであろうか。
 当時、労働界では、全日本労働総同盟(同盟)と総評主流派(社会党系)によって労働運動の再編が進み、総評反主流派(共産党系)はそれから排除されつつあった。こうした流れが原水爆禁止運動にも波及し、ここでも共産党系が排除されるとみて危機感を深めたのだろうか。
 それに、一九八〇年に、それまで社共共闘を続けてきた社会党が、公明党との連合政権構想に踏み切ったことも共産党に危機感を抱かせたのだろうか。この社公合意に基づいて社会党の基盤である総評主流派が社共共闘から離れ、共産党排除の右より路線に傾斜してゆくのではないか、とみたのであろうか。
 しかし、当時、原水爆禁止運動を取材していた者の目から見る限り、総評主流派には運動を乗っ取ろうなどという意思もなく、その力もなかった。総評主流派は内心では原水爆禁止運動で共産党系と共闘したくないのだが、「統一」を望む世論の手前、いやいやながら、限定的な共闘を共産党系と続けていたというのが実態であった。

 日本共産党とソ連共産党の会談が迫っていたからではないか、との見方がある。こうした見方は吉田、草野両氏らが“追放”されたあとも原水協内に残った活動家の間にもある。
 それによると、一九八四年十二月十日から十八日まで、宮本議長を団長とする日本共産党代表団がソ連を訪問し、チェルネンコ・ソ連共産党書記長と会談した。この訪ソは、ソ連共産党と「核戦争阻止」「核兵器廃絶」といった課題について話し合うのが目的だった。だから、この会談で、宮本議長としては、世界の原水爆禁止運動は、日本共産党が完全に掌握していると会談相手に誇示したかったのではないか。したがって、訪ソを控えた日本の党としては、党の方針に従わなくなった原水協の主要役員を切り、原水協、ひいては運動全体への党の影響力をより強めたかったのではないか、というのである。

 いずれにしても、政党と社会運動団体とは本来、互いに独立した関係にあり、互いにその自主性を尊重し合わねばならないというのが市民社会で認められた原則だ。なのに、一九八四年から八六年にかけての共産党の動きは明らかに社会運動団体への干渉だった、との見方が強い。

 運動の再分裂は、「統一」を願う多くの市民に失望と悲しみをもたらした。分裂に嫌気して運動から離れる団体、個人も出て、運動は衰退に向かった。このため、「核兵器廃絶」に向けての世論形成力といった点で運動は著しく後退してしまった。最近ではむしろ、広島市、長崎市といった自治体の役割が注目を集めている。
 それに、再分裂により日本の運動は、国際的な影響力を著しく低下させてしまった。再分裂までは、日本の運動が世界の反核運動をリードしていたが、再分裂を機にイニシアチブを発揮することはほとんどなくなった。いまや、世界の運動をリードしているのは、海外の医師、法律家らの国際的な反核団体である。
 再分裂からすでに二十一年の歳月が流れたが、小異を残していま一度大きくまとまろうという動きは見られない。運動は、今なお再分裂の重い後遺症の中にある。

 「八四年問題」は共産党自身にも影響を及ぼしたと言っていいだろう。この問題での共産党の主張、やり方に疑問を感じた党員や党支持者もいたし、とくに知識人の間でその傾向がみられたからである。この問題を機に党から離れた学者や、離党はしないものの積極的に党活動をしなくなった学者、党支持をやめた学者もいた。
 同党は、一九九〇年代以降、国政選挙での後退が続いている。ソ連をはじめとする社会主義陣営が崩壊したことや、衆院選で小選挙区制が施行されたことが主たる原因だろう。が、私には「八四年問題」も響いているのではないか、と思えてならない。つまり、この問題を機に一部支持者の間で共産党離れが進んだと思えるのだ。
 
 宮本議長は戦前に非合法下の共産党に入党したが、入党間もない一九三三年に、党内に潜入したとされるスパイ査問事件で逮捕され、入獄する。「獄中十二年」の後、敗戦の一九四五年に釈放され、党再建活動に加わる。五〇年に党は分裂するが、五年後に党は統一を回復する(第六回全国協議会)。以後、宮本議長は党運営の主導権をにぎり、一九九七年に引退するまで実に三十九年間にわたって党のトップの座にあった。
 党分裂時代に徳田球一らの主流派が極左冒険主義(いわゆる火焔びん闘争)に走ったため共産党は国民の支持を失うが、六全協後の宮本議長は議会を通じた平和革命路線を定着させ、また、ソ連共産党や中国共産党の言いなりにならない対外路線(自主独立路線)を確立するなどして、敗戦時には小さな政治勢力に過ぎなかった共産党を近代的な政党に育て上げた。宮本議長に接したことのあるジャーナリストの間では、情報収集力、洞察力、決断力、実行力といった面で傑出した、稀にみる優れた政治家だったとの見方が強い。
 なのに、原水爆禁止運動のフィールドではなぜその再分裂劇の立役者となってしまったのか。運動の現場の情報が議長のもとに正確に届いていなかったのか。つまり、側近が悪かったのか。
 宮本議長は、その経歴からも分かるように、戦後、獄中から解放されるとすぐ党活動に入り、そして、すぐ党のトップの座に登りつめた。つまり、大衆運動の現場で大衆とともに汗を流したという経験に乏しい。労働運動とか平和運動などの大衆運動の指導という面では経験不足だったといってよい。したがって、党運営や、他党、外国の党との交渉には長けていたものの、国民大衆の真の願い、心情、感情といったものをつかめなかったのではないか。そうしたことが、「八四年問題」の根底にあるのではないか。私には、そう思われてならない。

 宮本議長がまだ党のトップに君臨していた一九九四年に発行された党史『日本共産党の七十年』は「八四年問題」に二八〇八字を費やしている。
 そこには「八四年原水禁世界大会は、総評・『原水禁』と原水協内部の吉田嘉清ら一部のものの分裂・妨害策動をのりこえて成功した。総評・『原水禁』を中心とする原水禁世界大会への分裂・妨害は、世界大会の課題をめぐる政治的攻撃と共闘の組織・運営の二つの面から、伝統ある原水禁世界大会を変質させようというものだった」「哲学者古在由重も、マスコミの前で公然と吉田に同調するなど、党員としての重大な規律違反をおかした。党は説得や批判など誠意をつくしたが、かれはこれを拒否し、党は古在を除籍した」などとあった。
 しかし、宮本議長が引退した後の二〇〇三年に発行された党史『日本共産党の八十年』には「原水爆禁止世界大会は、七七年いらい、運動の国民的な統一をねがっての日本共産党と総評との話し合いを背景に、原水爆禁止協議会(原水協)と原水爆禁止国民会議(原水禁)が合意し、実行委員会方式で統一開催されてきました。しかし、八六年の大会を前に、総評・原水禁は核兵器廃絶を緊急課題とすることなどに反対し、脱落しました」とあるだけ。わずか一五八字で、しかも、八四年の混乱・紛糾には触れていない。
 これは、いったいどういうことだろうか。同党としては「八四年に起きた問題は宮本議長がやったことで、党は関係ない」ということなのだろうか。なんとも釈然としない党史の記述変更である。
                                      (二〇〇七年十月二十日記)

トップへ
目次へ
前へ
次へ