もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第129回 高山病の恐怖――世界の秘境・チベットへA
ゆけどもゆけども荒涼たる岩山ばかり=青海省チャイダム盆地で
標高3880メートルの地点では、温泉がわいていた=青海省の海南蔵族自治州興南県の温泉で




 中国の青蔵(青海・チベット)高原での学術調査を目指す東北大学日中友好西蔵学術登山隊学術班人文班が青海省の省都・西寧市から車二台に分乗してにチベット自治区の区都・ラサに向け出発したのは、一九八六年(昭和六十一年)の四月十六日。ラサにたどり着いたのが四月三十日。そこに滞在後、ネパールの首都・カトマンズに向けて出発したのが五月十三日で、世界の最高峰が連なるヒマラヤ山脈を越えてカトマンズに着いたのは五月二十七日だった。
 西寧からカトマンズまで、四十二日間の青海・チベットの旅。中国大陸を縦断するざっと六二〇〇キロの行程であった。

 今、この旅を顧みて最も印象に残っているのは、なんとも表現しようもないほど荒々しく峻厳な自然の相貌である。それは、想像を絶する世界だった。
 私たちが車で走った青蔵高原は、世界で最も高いところにある高原で、東西二五〇〇キロ、南北一二〇〇キロ、平均標高四五〇〇メートルという巨大な高原だ。私たちはその広大な高原をさっとかすめるように走り抜けたに過ぎないが、そこで出合った自然は、まことにすさまじいとしかいいようがなかった。

 まず、気候だが、青蔵高原のそれは大陸性気候というのだろうか、実に変化が激しかった。概して寒冷で、朝は氷点下になった。朝起きると、雪が積もっている日もあった。が、日中はからりと晴れ上がって、紺碧の空から強烈な太陽光線が降り注ぐ。気温がぐんぐん上がり、三〇度以上になる日もあった。かと思うと、抜けるような紺青の空が突然かき曇り、霰、雹が降ってくることも。総じて乾燥した日が多く、肌はかさかさに。まるで、一日のうちにすべての気象現象が次々と立ち現れる感じだった。

 次は、視界に入る自然景観だ。私たちが通った旧入吐蕃道は、茫漠たる大高原と重畳たる山岳の繰り返し。一望千里の、ゆるやかな起伏の高原が行けども行けども続く。
茫々たる原野とはこのことだろう。たまに出合うものといえば、ヤク(高地牛)か羊の群れぐらいだ。一面、茶褐色の世界で、緑というものが全く見あたらない。
 時折、前方の地平線上に青白く輝く白い帯が現れる。塩湖だ。四月半ばだというのにまだ凍結したままである。あたりは静寂そのもので、まるで神秘的な「死の世界」のようだ。
 高原が尽きると、今度は峨々たる山並みだ。ごつごつした暗褐色の固い岩山で、山肌には樹木も草もみあたらない。あらゆるものを拒否するかのような不毛にして奇怪な山塊である。
 その先に展開していたチャイダム盆地は東西八五〇キロ、南北最大二五〇キロ。標高は二六〇〇から三〇〇〇メートル。
 私たちはこの盆地の中を通っている青蔵公路を走り抜けたのだが、両側には、平坦な大地が広がっていた。それを覆うものといえば、茶褐色の、かさかさした砂と礫。まるで乾いた海のようだった。たまに見かける動物といえば、ラクダのみ。鳥さえも姿をみせない。まさに満目蕭条である。
 時折、行く手に黒い竜巻が現れる。盛んに天空に砂を巻き上げている。そうかと思うと、突如として黄色い砂嵐が襲ってくる。車の前方が暗くなる。砂が車体にぶつかり、バシッ、バシッと音をたてる。そしてまた、時折、白い水たまりのようなものが地平線上に現れ、かげろうのように揺れる。蜃気楼だ。
 竜巻や砂嵐のことを紹介したついでに、この盆地の風のことも書いておこう。ここでの風はまことに強烈で、砂漠を風が砂塵をあげてごうごうと吹き渡る。風に向かっては歩行が困難なほど。それに、車外に出ると、頬がチカチカ痛んだ。盆地のところどころに塩湖があり、そこから採れる塩の結晶が、風に吹き飛ばされてきて頬に突き刺さるからだ。
 「世界中の風がここに集まってくると言われているんですよ」。中国側のスタッフがそう教えてくれた。そういえば、盆地を通過中、空は濁っていた。

 チャイダム盆地を走破する間、私の脳裏には「不毛の地」とか「死の砂漠」といった言葉が浮かんでは消えた。そして、東晋の僧、法顕の旅行見聞記の一節を思い出していた。三九九年、当時六十五歳の法顕は経典を求めて長安を出発、インドへ向かった。天山山脈の南麓を通る天山南路の途中からタクラマカン砂漠を南下してホータンに至り、そこからパミール高原を越えてインドに達したとされている。
 鎌田義雄著『仏教のきた道』(原書房)によれば、タクラマカン砂漠を通った時の情景を次のように記している。
 「上に飛鳥なく、下に走獣なし。四顧茫茫(しこぼうぼう)として之(ゆ)く所を測る莫(な)く、唯、日を視て以て東西に淮(なぞら)へ、人骨を望んで以て行路を標するのみ。屡々熱風悪鬼あり、之に遭へば必ず死す」
 今、私たちが通過しつつあるチャイダム盆地もまさにその通りではないか。私は、生物の気配が感じられない「死の砂漠」に目をやりながら、ここをかつて往き来した人々に思いをはせた。それは、筆舌に尽くしがたい苦闘の日々であったろう。ここで息絶えも白骨となった人も多かったに違いない、と思った。  
 こうした苛烈極まる自然を旅することの困難さをひときわ思い知らされたのが、高山病の恐ろしさだ。話には聞いていたが、こんなに苦しくつらいものとは思わなかった。
 
 調査旅行の出発点となったのは青海省の省都・西寧市だが、人文班は出発までここに四日間滞在した。その理由の一つは、高山病対策だった。
 一般的に標高四〇〇〇メートルを超すと、空気中の酸素は平地の三分の二程度になるといわれ、人間の身体組織にさまざまな障害をもたらす。いわゆる高山病である。これから人文班が向かう青蔵高原には五〇〇〇メートルを超えるところがあるので、高山病にかからないよう、標高二二七五メートルの西寧で体をならしておこうというわけだった。
 私たちはこの間、西寧から南西二十八キロのところにあるタール寺(塔爾寺)を見学に訪れた。チベット仏教最大教派のゲルク派の寺の一つで、寺の敷地四〇ヘクタールという大伽藍。千以上の大小建築物からなる。
 こんな豪華で華麗で荘厳な大寺院群を見たことがなかった私は、すっかり興奮してしまい、カメラ三台、8ミリ撮影機一台、テープレコーダー一台の入った重いバッグを肩に迷路のように延びる急な石の階段を登ったり、降りたりした。
 そのうち、体に震えがきた。寒い。手足も冷たくなってきた。休憩所に戻っても、悪寒はひどくなるばかり。そのうち、頭痛、めまいが加わった。体もだるく、節々が痛い。ホテルに帰っても、症状は変わらない。「風邪かな」と思っていると、班のメンバーに「高山病の初期症状だよ」といわれて、びっくりしてしまった。
 かくして、人文班一行十一人のうちで最初に高山病にかかったのが私だった。それも、旅が始まる前、しかも標高約二〇〇〇メートルちょっとの低地で早くも発病してしまったのだ。「これから先、なだたる高地に果たして耐えられるだろうか」。私は暗い奈落に落ちてゆくような不安に襲われた。
 
 調査行が始まってからも、標高が三〇〇〇、四〇〇〇と上がるたびに私は高山病にかかった。頭痛、発熱、悪寒、手足の冷え、吐き気、息苦しさ、脱力感、食欲不振……といった症状に見舞われた。そのたびに、人文班携行の酸素を吸った。解熱剤にもやっかいになった。
旧入吐蕃道の小さな集落、瑪多(標高四一七〇メートル)では、人文班六人のうち五人までが高山病にかかった。とくに症状が重い色川大吉班長は瑪多県人民病院で肺水腫と診断され、即入院となった。
 青蔵公路の一番の高所、唐古拉山口(標高五二三一メートル)を越える時も、高山病が再発した。ここは峠で、雪が積もっていた。前方からやってきた数十台の軍用トラックがスリップして次々に立ち往生し、交通渋滞となった。私たちは、ここを脱出するのに四時間もかかった。しかも、車が雪に車輪をとられて立ち往生すると、そのたびに、班員は車を降り、寒風の中、車を押した。が、私だけは車の中にいて、作業しなかった。いや、できなかった。高山病でとても車の後押しなどできる状態でなかったのだ。私は、車の座席に背をもたせ、目をつぶって頭痛と吐き気と悪寒に耐えるほかなかった。
 高山病は、低地に降りれば、すぐ回復する。酸素が豊かになるからだ。私たちは、標高三七〇〇メートルのラサにたどり着いた時、それまで悩まされていた高山病から解放された。
 高山病で死者も出た。私たちがラサに入る前に、空路で直接ラサに入った東北大学日中友好学術交流団の団員、山縣登・国立公衆衛生院名誉教授(当時六十五歳)が、ラサから西方のシガツェ滞在中に肺水腫で死亡したのだ。遺体はラサに運ばれ、ここで告別式が営まれた。

 旅も終わりに近づき、西寧を出てから四十日目の五月二十五日、私たちは中国・ネパール国境のザンムに着いた。標高二二五〇メートル。西寧とほぼ同じ高さ。樹木は濃い緑に覆われ、色とりどりの花が咲いていた。空気はしっとりして快く、胸一杯吸い込むと、甘い香りがして、胸の底にしみてゆくようだった。色川班長がしみじみと述懐した。「文字通り、命がけの旅だったね、私たちの旅は」
 私の体重は六三キロになっていた。出発時は六九キロだったから、六キロ減である。旅の間、バランスのとれた食事がとれなかったこと、後半は量的にも十分な食事がとれなかったことも影響したと思われる。しかし、私には、厳しい自然環境と高山病が体重が減ったことの最大の要因に思えてならなかった。すっかりへこんでしまった腹をみやって、いまさらながら高山病の恐ろしさに思いをはせたものである。
                                     (二〇〇七年十一月五日記)

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