もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第107回 光と影

土、日曜日は休み。公園は市民たちでにぎわっていた(1977年7月、モスクワ市内で。右端は筆者)




 人類史上初めての社会主義革命(ロシア革命)で成立したとされるソ連は、この国に何をもたらしたのだろうか。それを知るには、革命の前に生まれ、革命を経験し、それから今日までソ連で生活してきたロシア人から話を聞くのが一番手っ取り早いだろうと考えた。
 このため、私たち取材班は受け入れ先のノーボスチ通信社に「革命の生き残り」に会わせてほしい、と要請していたが、レニングラード(現サンクトペトロフスク)で三人の「革命のベテラン」に会うことができた。

 アルシャフスキー氏。八十一歳。オデッサで生まれ、イルクーツクへ。そこで党(ボルシェビキ)に入った。オデッサに戻ったが、労働者の地下活動に参加してつかまり、シベリアに流されたが脱走してペトログラード(レニングラードの旧名)へ。そこで、一九一七年の二月革命、十月革命に参加。その後、レニングラードの区党委員会書記などを歴任し、科学アカデミーの図書館にも勤務。経済学博士。今は妻と二人で年金生活という。
 ――六十年間を顧みて、どんな感想をもっていますか?
 「共産党が大きくなったことだ。六十年前はわずか数万人だったが、いまでは一千五百万の党だ」
 「それに、生産力が増大したことだ。経済は巨大なものになり、国民の生活水準、文化的水準が上がった。ただ、残念なことがある。米国のおかげで軍備競争が行われ、わが国もこれにある程度参加していることだ。これは全人民の生活水準を上げる上ではいいことではない」

 シェパノウ氏。七十八歳。ペトログラードの労働者だった時に入党。十月革命の時は武器製造工場にいて、武装蜂起した労働者に機関銃をおくる仕事に携わった。その後、国内戦争に加わった。戦後は大学で技術を専攻、博士号をとり、大学教授に。今は妻と二人で年金生活。息子と娘、二人の孫がいる。
 ――六十年間を顧みて、何が一番印象に残りますか?
 「われわれはツアーの時代、革命の時代、ソビエトの時代、ファシズムとの対決の時代をそれぞれ生きてきた。その結果、我が国は力強く、いろいろな分野で発達した国になった。とくに素晴らしいと思うことは、教育が無料になったことだ。私は労働者出身だが、教育の無料化のおかげで博士となることができた。娘は大学を出て医者に、息子も大学を出て技師になった。二人の孫も技師になった。これも教育が無料になったおかげだ」
「まだある。生活水準が高まったことだ。そのおかげで平均寿命も高くなった。革命前は五十歳になると老人で、私の父は四十一歳、父の兄は四十八歳で亡くなった。が、私はすでに七十八歳だがエネルギーがあり余っている」

 ギリレワさん。七十九歳。一九一七年の入党で、ペトログラードの区党委員会で図書館の仕事をしたり、看護婦の教育にあたった。十月革命では、革命本部のあったスモーリヌイで開かれた第二回全ロシア・ソビエト大会に参加した。その後、オーロラ号の兵士たちとともに、クラスノフ将軍率いる白軍と戦った。戦後は大学で言語学を専攻、博士の資格をとるとともに大学の教壇に立った。夫はすでに死亡、今は一人娘とともに年金生活という。
 ――六十年前と今ではどう違いますか?
 「みんな平等になったことね。革命前には不平等があったが、いまでは労働者、農民、インテリゲンチャがそれぞれ同じ権利をもっています」
 「それに、平均寿命が伸びたことね。昔は短命だったが、わたしのきょうだいはみな七十三歳を過ぎても丈夫です」
 「もちろん、わが国にも欠点があります。その一つは住宅問題です。まだ一世帯一つのアパートをもっておりません」

 このほかにも、私たちはソ連滞在中に出会った六十歳以上の人々に同様の質問をぶつけてみた。六十年前と比べて生活はどう変わりましたか?
 人々の答えはこうだった。
 「革命前、人口の四分の三は字が読めなかった。今ではそんな人たちはいない」
 「革命前、この町には粉ひき工場ひとつしかなかった。それが今では……」
 「家賃は一平方メートルあたり十三・二コペイカ(五十三円)で、四十九年間据え置き。教育も医療もただ。失業の心配はないし、年金があるから老後の心配もない」
 
 いうなれば、ロシア革命を知るお年寄りたちが挙げた「社会主義の成果」とは、教育や医療が無料になったこと、年金制度が充実して老後の不安がなくなったこと、失業の恐怖から解放されたこと、生活水準が上がったことなどだった。 
 年金について関心があったので、詳しく調べてみると、労働者、事務職員、コルホーズ(集団農場)農民とも、男は六十歳、女は五十五歳になると、老齢年金が支給されるとのことだった。月額で最高百二十ルーブル、最低四十五ルーブル。平均的な受給額は七十八ルーブル(ただしロシア連邦共和国の場合)。
 ソ連全体の平均賃金は月約百五十一ルーブル。モスクワ在住の日本人の話によれば、この国の最低賃金は七十ルーブルで、そのくらいあればまあ生活してゆけるとのことだったから、ほとんどの人は年金だけで生活してゆける状況だったといってよいだろう。

 こうした「成果」を可能にしたものは何か。それは、革命後の社会主義建設による経済力の向上、発展だったといっていいのではないか。つまり、遅れた農業国であったロシアが、革命後の社会主義建設によって世界でも有数な工業国家になったことでもたらされたのではないか、と私は思った。
 平凡社の『大百科事典』(一九八五年刊)も書く。
 「革命前のロシアは鉱工業のほとんどの分野でアメリカ、イギリス、フランス、ドイツに遅れていたが、今日のソ連邦は、いくつかの分野でアメリカには劣るものの、ヨーロッパでは第1位の鉱工業生産高を誇っている。アメリカと比べて経済発展度は近年急速に高まっていると自己認識されており、国民所得や工業力全体ではやや低いが、石油、鋼、化学肥料、セメント等々ではここ15年ほどの間に<追いつき追い越し>たとされているのである。欧米諸国が大量の失業者とインフレーションとの同時存在(スタグフレーション)に悩まされているだけに、驚くほど長期間にわたり安定した物価水準を遂げてきたソ連経済が、非マルクス系経済学者からも注目されているのは当然であろう。革命前ロシアの外国資本による産業の分断支配、革命後の内戦、干渉戦、さらに2000万人の死者を出したという第2次世界大戦などを考慮すると、ソ連の近年の経済的達成はまさに驚異的というべきであろう(中山弘正)」
 
 フランス共産党のリーダーの一人だったジャン・エレンステンはその著『スターリン現象の歴史』(大津真作訳、大月書店)の中で、次のように書いている。
 「内戦(そして第一次世界大戦)の結果は、ドラマチックなものだった。工業は、ほぼ完全に(武器の生産をのぞいて)消滅し、農業は、その生産を半分に減らしてしまった。……農業生産の落ちこみの結果は、一九二〇〜一九二一年冬の飢饉である。これは、歴史上、最も恐ろしいもののひとつだった。ヴォルガ諸地方からウラル・カフカースの国境付近、さらには、クリミアにいたるまでの、約二〇〇万平方キロメートルの地域に住む、二四〇〇万人が、飢饉にみまわれた。文字通り、人間が飢え死にするというような、まったくはるか昔に逆戻りしたわけである。飢饉に疫病が追いうちをかけた。チフスとコレラがはやった。飢饉は、七〇〇万人以上を殺害した。この数字には、第一次世界大戦の死者一五〇万人と内戦の死者一〇〇万人、そして疫病で死んだ人数三〇〇万人をプラスしなければならなかった。総計で、一九一四年から一九二一年にかけて、外国との戦争および内戦――そして、それらの原因に起因する死者の数は、一三五〇万人にのぼっていた。亡命は、約二〇〇万人と推定された。何千万人もの乞食や浮浪者や棄て子が、原野をほっつき歩いていた」

 こうした著作からすると、革命直後のこの国の混乱と疲弊はどうやら想像を絶するものであったようである。その国が、アメリカと比べ国民所得や工業力全体ではやや低いが、石油、鋼、化学肥料、セメント等々で追いつき追い越すまでになった。それゆえ、この国の経済面での歩みが専門家によって「まさに驚異的」と評されたのだろう。

 ソ連滞在中、土、日曜日は仕事にならなかった。この国ではすでに「週休二日制」が実施され、官公庁も工場も休みだったからである。この恵まれた労働条件も「社会主義の成果」に違いなかった。 

(二〇〇七年三月二十七日記)





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