もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第106回 革命は遠くなりにけり

レニングラードで買ったレニングラードの地図には、スモーリヌィの正面に立つレーニン像の写真が載っていた




 私たちソ連取材班の旅は、四十八日間、約二万キロに及んだが、最初から何を書こうと決まっていたわけではない。新聞記者の仕事というものは、最初から記事のデザインができているわけではなく、まず、現実に接し、事実を知ってから、書こうとすることの骨格が見えてくるというのが一般的なパターンだ。ソ連取材でも、いろいろなものを見、さまざまな人に会うなどしてようやく「ソ連報告」のおおまかな骨格が固まってきたのは、取材開始から二週間ほどたってからだった。つまり、取材班各人の取材・執筆分担が次のように決まったのだ。
 キャップの青木ヨーロッパ総局長が「思想」「文化」「宗教」「マスコミ」「若者」など、高山外報部員が「経済」「財政」「暮らし」など、私が「政治」「労働」「社会保障」「教育」「女性」など。中井写真部員は、これらのテーマにつける写真を用意することになった。 
 私たちの取材結果は、「革命60年のソ連」のタイトルで、この年(一九七七年)の八月十八日付から朝刊に三十回にわたって連載された。これに先立ち、中井写真部員の写真に私の短文をつけた「ソ連’77夏」が、夕刊に七月二十日から十二回にわたって連載された。これらは、外報部によって一冊の本『革命60年のソ連』にまとめられ、朝日新聞社から刊行された。
 私たち取材班がソ連で何を見、何を感じたかを知りたい方は、どうかこれらの報告を読んでいただきたいが、ここでは、私が個人として印象に残ったことのいくつかを書く。

 ロシア革命発祥の地といえば、レニングラード(現サンクトペテルベルク)である。それだけに、この都市を訪れた時は、特別の感慨があった。
 私たちがレニングラード空港に着いたのは六月四日午後九時半。日本ならとっくに暗くなっている時刻だが、機外は昼間のように明るかった。ここは北緯六〇度に近く、極東でいえばカムチャツカ半島のつけ根あたりに位置する。だから、夏は白夜の季節で、六月下旬にはその白夜が最も長くなる。私たちが滞在中も、夜十一時を過ぎても戸外で本が読めた。
 レニングラードはロシアの首都だった。十八世紀の初頭、ピョートル大帝が外国人技師を招いてネバ川の河口に「ヨーロッパへの窓口」として新都をつくった。それだけに、ロシアの街という感じがしない。むしろ、西欧的な雰囲気が漂う。アンドレ・ジイドはかつて「これほど石と金属と水の調和した美しい街をわたしは知らない」と言ったと伝えられている。それに、プーシキンとゴーゴリとドストエフスキーの町だ。この町を舞台にロシア文学の名作が生まれたのだった。
 建物がほぼ同じ高さに抑えられていることで、街並みがきわめて整然とした感じを与える。そして、この石造りの街並みにうるおいを与えているのが、ネバ川とそれに注ぐ無数の運河だ。石造りのビル街が与える硬質な感じ。これに対し、ネバ川と運河にたたえられた水が与える軟らかい感じ。「硬」と「軟」が見事に調和し、美観をかもしだす。そうした美しい市街が、北国特有の乳色の大気の下に広がっていた。私たち取材班が訪ねた時の人口は四百五十万。
 ロシア革命ゆかりの建物は観光名所になっていた。まず、スモーリヌイ。一九一七年の二月革命までは貴族の女学院だったが、二月革命後は労働者兵士代表ソビエトの全ロシア中央執行委員会とペトログラード(レニングラードの旧名)・ソビエトの本部が入っていた。そして、同年十一月七日、レーニンがここに入り、労働者や兵士が冬宮(宮殿)に突入する。いわば、革命の本部となったところだ。労働者・農民による新しい政府の成立を告げるレーニンの布告もここから発せられた。
 ジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』(岩波文庫、原光雄訳)は当時のスモーリヌイをこう描写している。
 「スモーリヌイ学院は、数マイルはなれた市のはずれの、広いネヴァ河のそばにあった。私はそこへ市電に乗って行った。この市電は、ごろ石を敷いた泥の多い街路をうなり声をたてながら、蝸牛(かたつむり)のように動き、しかも人がぎっしりと詰まっているのだった。その線の終点に、にぶい黄金色の美しい輪郭をもつスモーリヌイ修道院の、優雅な煙青色の丸屋根がそびえ立っていた。そしてそのそばに、スモーリヌイ学院の兵舎風の大きな正面が立っていた。それは長さ二百ヤードの高い三階建で、石に大きく刻み込まれた皇帝の紋章が、入口の上方にまだ傲慢そうに残っていた」
 「スモーリヌイでは、入口と外門のところに厳重な見張りがあって、すべての人々に通行証(パス)を要求した。委員会室は終日終夜ガヤガヤと騒がしがった。幾百人もの兵士や労働者は、どこでも場所さえ見つければ、床の上にごろねをして眠った。階上の大ホールでは、一千人もの人々が、ペトログラード・ソビエトの騒然たる会議に群がりあつまっていた」
 それから六十年。クリーム色のスモーリヌイの屋上には赤旗がひるがえっていた。正面には、右手を伸ばしたレーニンの立像があった。その前に立っていたら、次から次へと外国人団体観光客や、ソ連全土からやってきたと思われる団体客がやってくる。そして、スモーリヌイをバックに記念撮影となる。
 ネバ川に浮かぶ島の上にペトロパブロスク要塞があった。帝政ロシア時代に政治犯を収容していた監獄だ。高い城壁の内側に屋根の低い長屋のような石造りの建物が長々と続く。
 薄暗い廊下を歩いて、ある部屋に入ると、そこは当時の看守の部屋だった。隅にガラスの展示ケースがあり、中に当時の囚人服、鉄製の足かせなどが陳列されていた。看守部屋を出ると、天井の低い廊下が続き、その片側が独房であった。鉄製の扉を開けると、十畳から十二畳の部屋で、天井近くに小さな窓が一つ。後は鉄製のベッドにトイレ。真っ暗なうえ、冷え冷えとして、いかにも陰惨な感じ。
 独房の壁には、収容されていた囚人の名前と写真が掲げられていた。レーニンの兄のアレクサンドル・ウリヤノフ、ゴーリキー、ナロードニキの活動家らの名前もあった。ナロードニキとは、ロシア革命が始まる前、農民の解放を目指して「ヴ・ナロード(人民の中へ)」を合い言葉に農村に入り、やがてツアー(皇帝)打倒のために少数者の活動家による直接行動、テロリズムに走った者たちのことだ。投獄されたナロードニキには若い女性もいた。ドストエフスキーが投獄されていた独房もある、とのことだった。
 外に出ると、要塞の中央にあるペトロパブロフスク寺院の入り口に向かって長い列ができていた。内外の団体観光客だった。
 ネバ川の流れがネフカ川へ分岐する地点には、オーロラ号が投錨していた。日本海海戦にも参加した帝政ロシアの巡洋艦で、ロシア革命の時、冬宮突撃の合図の砲声をとどろかせたことで知られている。三本の煙突をもつ艦体は灰色のペンキの色も鮮やかで、博物館になっているとのことだった。ここも観光名所になっていて、岸壁には、やはり内外の観光客があふれていた。
 
 観光コースに組み込まれた、革命ゆかりの建造物や記念物。そこにつめかけたおびただしい観光客。その人たちの、屈託のない、明るい顔。そんな光景を見ていると、こんな感慨がわき起こってきた。「革命は遠くなりにけり」

 こうした思いは、革命当時の生き残りに会った時、いっそう深くなった。
 私たちは革命に参加した人にぜひ会いたいと願っていたが、ソ連側のあっせんにより、三人の「革命のベテラン」に会うことができた。三人は十月革命博物館の前で私たちを待っていた。男性二人と女性一人。男性は八十一歳と七十八歳。女性は七十九歳とのことだった。
 三人とも革命前の入党で、十月革命に参加したという。男性たちは労働者出身で、革命後は学者になった。女性は図書館勤務だったが、革命後はやはり学者の道を歩んできたという。
 三人は、よくしゃべった。とくに「革命時の行動」や「革命の成果」を誇らしげに語った。まことに意気盛んであった。が、女性はすでに白髪だったし、顔にしみの出た人もいた。一人は老眼のようだったし、背が丸くなり始めた人もいた。革命から六十年なのだから当然といえば当然だが、やはり「老い」は隠せなかった。そうした「老いた」人たちが語る革命当時の経験は、遠い昔のことという感じは否めなかった。

 滞在中、ソ連側から聞いたところによると、その時のソ連の人口は二億五千八百九十万人。うち革命前に生まれた者は一四%とのことだった。革命を知らない世代がもはや国民の大半を占めるに至ったのだ。この統計に接して、私はロシア革命はやはり確実に「遠く」なりつつあるのだと改めて思ったものだ。 

(二〇〇七年三月十六日記)





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