もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第105回 広大さと多様さと

東シベリアのブラーツクではタイガを切り開いて住宅建設が行われていた(1977年6月、中井征勝写真部員撮影)=大明堂刊「季刊地域」1981年第6号から




 とにかく圧倒された。ソ連という国の広さにである。
 私たちソ連取材班が訪れた一九七七年(昭和五十二年)当時、この国は世界で一番広かった。地球上の陸地の六分の一を占め、アメリカの三倍、日本の六十倍の広さであった。知識としてそう理解していても、いざこの国の土地を踏んでみると、まるで気が遠くなるような広さだった。
 なにしろ、東西に限ってみても十時間の時差があり、一方の端で夜が明け始める時、他の端では日が暮れかかっているといった状況だった。ソ連を東西に横断しようとすると、航空機だと約十時間、鉄道なら特急で一週間以上かかる。河川の長さは千キロ単位、町と町の間は百キロ単位で表さざるを得ない広漠としたソ連と、耕して天に至る日本と。わが日本は、まるで狭い箱庭のように思えた。
 
 旅の間、至るところでこの国の広大さにどぎもを抜かれたが、なかでもその感を強くしたのはシベリアを訪れた時だ。
 モスクワで航空機に乗った。約五時間でシベリアのブラーツクに着いた。そこから、北へ二百七十五キロのウスチイリムスクへ。シベリア開発の前線とされていたところで、開発の現状をこの目でみるためだ。鉄道も空路もない。で、私たちは車で向かった。
 平坦な森林地帯の中に未舗装の一本道がどこまでも延びる。行けども行けども左右にはタイガ(大森林)が広がっていた。車を飛ばすこと四時間半、タイガが途切れて急に視界が開けた。そこが、人口五万五千のウスチイリムスクだった。この間、対向車もなければ、人一人っ子出会わなかった。動物にも出合わず、タイガは森閑としていた。
 ブラーツクでは、水力発電所と発電所のためにつくられた貯水池(人造湖)を見学したが、堰堤の長さは五キロ、貯水池の長さは五百七十キロに及んでいた。ソ連側の説明では「世界最大の人造貯水池」というふれ込みだったが、貯水池というよりはむしろ、海といったほうがふさわしかった。

 ウスチイリムスクから南西に四千キロ。北緯五〇度近くのビョーシェンスカヤ。北コーカサスのロストフから北へ四百キロ。私たちはロストフから複葉機をチャーターしてそこへ飛んだが、上空からみる光景は、緑を敷きつめたような平らなステップ(草原帯)だった。そこに、白く光って蛇行する帯が目に入ってきた。ドン川であった。まさに、息をのむような大地の広がり。ここが、ショーロホフ作の長編小説『静かなドン』の舞台だった。戦争と革命にほんろうされたコサックの歴史が、私の脳裏によみがえってきた。眼下に広がる小説の舞台を見て、私は感情の高まりを覚えた。
 ビョーシェンスカヤでは、ソフホーズ(国営農場)を見学した。地平線の彼方まで、麦畑が延々と続いていた。
 ドン川を船で下った。川幅は二百メートル。流れはほとんどない。真っ赤な夕日が、川面をあかね色に染める。時間が静止したような静けさ。「ロシアの自然はなんと広大で雄大だろう」 。そんな感慨にしばし浸った。

 加えて、この国の多様性も強く印象に残った。まず自然、とりわけ気候におけるそれである。
 私たちがモスクワに着いたのは五月二十五日。それからしばらくモスクワ市内で取材を続けたのだが、夜になると冷え込みが厳しく、とくに雨の夜はしんしんと冷えてこたえた。だから、私たちの中で急遽オーバーを買った者もいた。これは、モスクワで着用するというよりも、これから向かう予定のシベリアで着用するためのものだったようだ。つまり「モスクワがこんなに寒いのなら、シベリアはもっと冷えるだろう」という予測が、彼をしてオーバーを買わせたのだった。
 が、結果的には、彼はそのオーバーを着ることはなかった。というのは、シベリアに着いたら、なんと、そこは夏だったからである。
 私たちがシベリアのブラーツクに着いたのは六月一日。タイガには、冬の名残りが感じられた。タイガの木々はいずれも凶暴な冬将軍にぜい肉をそぎ落とされたかのように細く、シラカバはまだ裸の枝を天空にさらしていた。下草は茶褐色に枯れたままだった。「三日前まで雪が降っていたんですよ」と地元の人は言った。ホテルにはスチーム暖房が入っていた。
 ところが、その日、気温がぐんぐん上がり、ついに三十度近くに。すると、地元の人は、私たちに向かって「きょうから夏です」と宣言した。私たちの目の前で、シベリアは冬から夏へと、いっきに衣替えしたのだ。春をぬいて一足飛びに、である。
 そのことを痛烈に思い知らされたのは、この日の夕方、ブラーツクの貯水池畔を訪れた時、目の前に展開された光景によってだった。
 貯水池畔で、私は思わず目を見張った。緑かがった青い池面を、まるでザラメを敷きつめたように流氷が埋めているではないか。鋭くとがった氷片が夕日を浴びてキラキラ輝く。と、その時だ。池畔に若い男女が現れ、衣服を脱いで水着姿になった。二人は、池の浅いところに足を踏み入れると、池に浮かんだ氷片を両手につかんだ。すると、それはバリバリと音をたてて割れた。
 夏の人造湖に浮かぶ氷、その氷と戯れる水着姿の若いカップル。これこそ、春を飛び越えて冬から一足飛びに夏に変わるシベリアの自然を如実に示しているのではないか、と私は思ったものだ。
 この後、六月三、四日には、西シベリアの中心地、ノボシビルスクに滞在したのだが、二日間とももう完全に夏で、とくに四日には気温が三十四度に達した。郊外のオビ海沿岸では、涼を求める海水浴客でにぎわっていた。いろとりどりの水着がまぶしかった。

 ところが、私たちはその日のうちに、また冬のような寒気に身を震わすことになる。というのは、六月四日午後、猛暑のノボシビルスクを飛行機で発って、さらに西のレニングラード(現サンクトペテルブルク)に向かったからだ。レニングラード空港に着いたのは午後九時半。機外にに出ると、冷え冷えとした空気に包まれ、思わず肩をすぼめて身震いした。空港の温度計は九度を示していた。私たちを出迎えてくれたノーボスチ通信社レニングラード支局員は黒い厚手のオーバーを着ていた。
 わずか数時間前、私たちはシベリアの猛暑に汗だくだった。それが今、一転して冬のような寒さ。この国には、まるで夏と冬が同居しているかのようだった。

 この国の多様性は、気候に限らなかった。
 私にとって意外だったのは、地方都市のもつ多様性だった。私は、訪ソ前、「社会主義国なんだから、何事も画一的なんだろう」と思っていた。が、この国を旅してみたら、どこへ行っても、それぞれ特色をもっていて、決して首都モスクワのミニチュアではなかった。
 私たちは結局、十四の都市を訪ねたが(なかには、都市というよりは集落といった小さな街もあったが)、どれ一つとして同じ風貌をしたところはなかった。むしろ、それぞれが独自の容姿と機能を備えていて、私を魅了した。旅が終わりに近づいたころ、私はこう思ったものである。「モスクワだけを見て、これがソ連だと即断してはいけないな」と。
 考えてみたら、当時、ソ連は、十五の共和国、百以上の民族によって構成される連邦国家、多民族国家だったのだ。ということは、各共和国がそれぞれ独自の歴史、伝統、文化、しきたりをもっていたということであり、それが街の景観や住民生活に色濃く影を落としていたということだろう。
 こんなこともあった。この旅では、どこへいっても、スターリンをしのばせる片鱗は何もなかった。一九五六年にフルシチョフ第一書記によってスターリン批判が行われ、この国ではスターリンは完全に否定されていたからだった。が、私たち取材班が訪れたグルジア共和国のゴリでは、街の中央にスターリンの銅像がそびえ、スターリンを讃える博物館がにぎわっていた。ゴリはスターリンの生地であった。この国の多様さをここにも見た思いだった。 
 
 それにひきかえ、日本の都市のなんと味気ないことよ。地方都市は日ごとに独自性を失い、ミニ東京化してゆくばかり。東京など大都会のそれと同じような建物が増え、加えて全国チェーンの大型店や飲食店が地方に進出して、ローカル色を駆逐してゆく。それにともない、古い由緒ある建造物が次々と壊されてゆく。
 すさまじい東京化の波。ソ連各地の古い街並みを見ながら、私は、日ソの違いに思いをはせたのだった。

(二〇〇七年三月八日記)





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