もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第104回  四十八日間・二万キロの旅

取材に使った複葉機の前で記念撮影(左から筆者、青木ヨーロッパ総局長、1人おいて通訳のゾーリン氏、右端は高山外報部員)=ビョーシェンスカヤで中井写真部員写す




 一九七七年(昭和五十二年)五月二十五日、シェレメチェボ空港に着いた私たちソ連取材班を出迎えてくれたのは、ノーボスチ通信社(APN)の副社長、国際関係部長、アジア部長、日本課長らだった。
 当時、ソ連には二つの国営通信社があった。タス通信とノーボスチ通信社だった。外国の報道陣の受け入れ窓口になっていたのがノーボスチ通信社で、朝日新聞社も同社を通じて取材を要請し、認められたのだった。当時は、社会主義国はどこも、西側諸国におけるような自由な取材活動はできず、西側の報道機関が社会主義国で取材しようとすれば、相手国に取材許可を申請し、許可が出て初めて入国できたわけである。

 到着後、さっそく取材班とAPNの打ち合わせがあった。取材班は、出発前にあらかじめ見学を希望する地域や施設、インタビューしたい要人のリストをソ連側に提出してあった。打ち合わせの結果、二、三をのぞきすべて取材スケジュールに盛り込まれた。それに、ソ連側がぜひ見せたい、会わせたいという土地、施設、要人も加えられた。だから、大変な濃密取材ダイヤとなった。私たちの取材班は、西側のマスメディアとしては例のない大がかりなものだったから、ソ連側としてもそのことを重視し、見せたいもの、会わせたい人を押し込んできたという面もあったのだろう。
 私たちは、過密ダイヤに対応すべく分業態勢をとることにした。団長の秦正流専務・編集担当はモスクワにとどまり、閣僚級の要人十四、五人との会見に臨んだ。
 私を含む青木利夫キャップ以下の四人は、地方取材に出た。私たちが回ったコースは次のようなものだった。

 モスクワ―ウリヤノフスク(レーニンの生地)―モスクワ―ブラーツク―ウスチイリムスク(シベリア開発の前線)―ノボシビルスク(科学都市)―レニングラード(現サンクトペテルブルク)―リガ―トビリシ―ゴリ(スターリンの生地)―バツーミ―トビリシ―ボルゴグラード―ロストフ―ビョーシェンスカヤ(『静かなドン』の舞台)―ロストフ―キエフ―モスクワ。

 地方の主要都市を回ったわけだが、極東のシベリアから西端のラトビアの首都リガまで中央アジアを除くソ連の全土に及んだ。その行程、ざっと二万キロ。
 航空機と列車を乗り継いでの旅であった。航空路も鉄道もないところは、飛行機や車を雇って訪れた。例えば、北コーカサスのロストフから『静かなドン』の舞台となったビョーシェンスカヤまでは約四百キロ。航空路も鉄道もなく、私たちは複葉機をチャーターして飛んだ。
 当時、ソ連には百三十五カ所の「指定観光地」があった。外国人が訪問できる地域で、それ以外の地域には入ることができなかった。が、私たちが訪ねた地域のうちウスチイリムスクとビョーシェンスカヤは「非指定地」であった。
 地方取材は三十日かかった。その前後のモスクワ滞在を加えると、ソ連における取材は四十八日間に及んだ。

 取材旅行では、戸惑うことが多かった。
 まず、私たちの立場とソ連側のそれにずれがあったことである。私たちがあくまでも「取材班」に徹しようとしたのに対し、ソ連側は私たちを「革命六十年」を祝う外国からの「代表団」として歓迎しようとしていたからだ。
 私たちは、行く先々で地元共産党委員会などが準備した歓迎会攻めに遇った。そこでは、ウォツカやワインによる乾杯があった。「取材できたのだから」と、私たちは宴会に出ることを自粛することにしていたが、私たちを歓迎してわざわざ開いてくれた宴会をボイコットするわけにもゆかない。まだ胃潰瘍を患っていた私はアルコールを控えていたから、歓迎会では、他の三人が乾杯攻めにあった。なかには、一時体調を崩した班員もいた。酒にめっぽう強いロシア人とつきあうのはほんとうにきつかった。

 こんなこともあった。黒海の東岸、トルコと国境を接するアジャル自治共和国の首都バツーミを訪れた時、私たちはただちに共和国政府の建物に案内され、首相の接見を受けた。ホールの中央に首相、左右に副首相、文化相、社会保障相、テレビ・ラジオ委員会議長ら二十人以上が並び、私たちを迎えた。首相は「日本のジャーナリストの来訪は歴史的なことだ」と述べ、共和国の歴史、産業、文化などの現状を説明した。
 翌潮、地元紙の第一面に「日本からの客」という見出しの記事が載った。ロシア語のできる高山外報部員によれば、そこには「わが国を訪問中の日本最大の全国紙・朝日の記者たちがきのうわが共和国に到着、首相らに迎えられた。一行は四人。わが共和国を訪れたのは、大十月革命六十周年を機会に、われわれの暮らしと仕事ぶりをつぶさに紹介するためである。(中略)首相との会見で朝日の記者たちは、共和国の経済、文化の多様な発展、黒海の環境保護、保養地としての展望、その他共和国が当面する諸問題に関心を示した」とあったという。
 会見に同席していた地元の記者が書いたものらしかった。なんとも晴れがましく、私たちは苦笑しながら互いに顔を見合わせたものだ。
 もちろん、私たちはこうした“公式行事”だけに時間をついやしていたわけではない。“公式行事”をこなす一方、さまざまな施設を訪ね、関係者の話をきいた。また、可能なかぎり町をぶらついて、一般の人々との接触を図った。このため、取材日程がいっそう過密なものになった。

 私たちとソ連側の間で生じたずれは、政治体制の違いからきたものと言ってよかった。私たちが暮らす西側諸国では、報道機関は民間の組織で政治権力から独立した存在だが、社会主義国における報道機関は国営であり、いわば共産党や政府の政策を宣伝するための機関だった。だから、ソ連でも、とくに地方の人びとには西側諸国の報道機関の性格について理解しにくいという面があったのではないか。私には、そう思われた。

 それから、一連のソ連取材は、終始、カメラマン泣かせの旅だった。写真が自由に撮れなかったからである。取材班の中井写真部員は、いたるところで「ニエット」の声で撮影を拒まれた。「ニエット」とは英語の「ノー」である。
 中井部員によると――モスクワの魚専門店で、缶詰類や冷凍魚を買うために並んでいた主婦の列にカメラを向けると、突然、店員に背中をドスンと突かれた。「漁業省の許可をとってこい」というのだった。なにもそこまでしなくても、と責任者に訴えたが、答えは同じ。その後も店を出るまでの約二十分、女店員につきまとわれた。監視のためだったのだろう。
 レニングラードの目抜き通りにオレンジの山があり、数十人が列をつくっていた。シャッターをきった途端、四十すぎの女性に突き飛ばされた。女性は「立ち去れ。おまえは招待されてきて来てるんだろう」とすごいけんまくだった。
 ブラーツク空港で取材班が次の取材地に向かうため待合室にいたところ、インツーリスト(国営旅行者)の女子職員が、肩からさげていたカメラを見て、「カバンにしまってください」と言った。「空港を撮影できないことは知っているし、そのつもりもない」といっても、女子職員は「ニエット」。
 モスクワのクレムリンでは、レーニンの執務室は撮影禁止、というので、カメラをカバンに入れて持ち歩こうとすると、係員に強引にカメラをクロークに預けさせられた。
 リガの街角の公園で、花壇と散歩するお年寄りにカメラを向けていると、サイレンを鳴らしたパトカーが二台やってきて、警官が降りてきた。理由を話し、拘束されずにすんだが、市民が「変なやつがいる」と警察に通報したらしかった。

 もちろん、軍事施設、港、空港、水利施設、鉄道分岐点、トンネル、鉄橋、陸橋、工業企業、科学研究所、放送局、電信電話局などは撮影禁止。航空機からの撮影、工業都市をみはらかす場所からの撮影も禁止だった。
 あまりにも制限が厳しくて、中井部員は「これでは仕事にならない」と嘆いた。帰国後、中井部員は社内報に「日ソの体制の違いや、みずから異常とも思える日本の取材活動などを割り引いても、とても理解できるものではなかった」「不満だらけだ」と書いた。

 私もまた、この国のこうした異常な閉鎖体制に不満だったが、その一方で、これも革命以来のこの国の歴史に根ざしているのでは、と思えてならなかった。
 ロシア革命は、世界に衝撃をもたらしたが、諸外国は自国に革命が波及してくるのを恐れた。このため、革命をつぶそうと武力干渉に乗り出した。いわゆるシベリア出兵だ。『岩波小辞典 国際問題』は書く。
 「革命の波及をおそれた英・仏・日・米は、1918年の半ばから、宣戦なしにロシアに出兵して武力干渉を開始した。英仏はアルハンゲリスク地域に、日本はウラジオを中心とした沿海州に、北コーカサスでは英仏の支持でロシアの反革命将軍が、そして英仏の支持でチェック人の捕虜がヴォルガの中流およびシベリアで活動した。ことにシベリア・沿海州はソヴェトの勢威がいちばん及ばない地域だった。ウラジオを門戸として、日本の結局7万にのぼった大軍隊をはじめ、イギリス・フランス・イタリア・アメリカ・ポーランド・セルビア・チェック人のそれぞれ編成した国民軍、各7000人ぐらいが、チェック人捕虜救援を名目として、実は(かくされた目的)、干渉のためにシベリアに上陸した」
 外国軍による干渉は、パルチザンの反撃にあい、結局、撤兵を余儀なくされるわけだが、以来、ソ連は外国ないし外国人に対し極度の警戒心を抱くようになったのではないか。外国人をみたらスパイと思え、といった雰囲気が国中に醸成され、強化されていったのではないか。それが、かたくなな鎖国体制を生みだしたのではないか。私には、そう思われたのである。

(二〇〇七年二月二十七日記)





トップへ
目次へ
前へ
次へ