もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第3部 編集委員として
スト権スト突入を伝える1975年11月26日付朝日新聞
社会部次長に在任中、世界でも日本でも大きな事件や出来事が起きた。
記憶に残る最大の事件は、なんといってもロッキード事件での田中角栄・元首相の逮捕だった。
ロッキード事件とは、アメリカの多国籍企業であるロッキード社が、大型旅客機トライスターを全日本空輸(全日空)へ売り込むにあたって、代理店の丸紅などを通じて約二十六億円の対日工作資金を政府高官らにばらまいた、政・官・財界癒着の汚職事件。一九七六年(昭和五十一年)二月四日、米国上院外交多国籍企業小委員会公聴会で、ロッキード社の海外での違法政治献金が明らかにされた。同六日、この公聴会で、ロッキード社のコーチャン副会長が、対日工作資金約三十億円を日本政府高官に流したと証言、これがロツキードj事件の発端となった。
これを伝えたワシントン発の記事の扱いは各紙とも小さかった。が、衆院予算委員会でこの事件が取り上げられて証人喚問が行われ、さらに衆院にロッキード問題特別委員会が設けられるに及んで、事件はがぜん、世間の注目を集めた。しかも、東京地検が動き出したことで、事件は政、官、財界を巻き込んだ大規模な贈収賄事件に発展する気配をみせるに至った。
その後、ロッキード社の工作は丸紅、全日空、右翼の児玉誉士夫の三ルートを通じて行われたことがわかってきて、この年六月に丸紅の大久保利春・前専務、七月には同社の伊藤宏・専務、檜山広・会長が東京地検に逮捕され、さらに、全日空の若狭得治・社長、渡辺尚次・副社長が同地検に逮捕された。
そして、七月二十七日には、田中角栄・前首相が外国為替及び外国貿易管理法違反容疑で東京地検に逮捕された。田中前首相は八月十六日、収賄罪で起訴されたが、その容疑は、ロッキード社のトライスターL1011型機の購入を全日空に働きかけ、成功報酬として同社代理店の丸紅を通じ五億円を受け取ったというものだった。
総理大臣経験者が贈収賄容疑で逮捕されるなんて、まさに前代未聞。前首相は新潟県出身。小学校卒の土木建築請負業から政治家に転じ、国のトップの総理大臣まで上りつめたところから、マスメディアは「今太閤」とか「庶民宰相」ともてはやし、国民の間でも人気があった。それだけに、多くの国民にはなんとも衝撃的な事件だった。
八月には、佐藤孝行・元運輸政務次官、橋本登美三郎・元運輸相が逮捕された。
結局、この事件で取り調べを受けた者は、逮捕された国会議員や政府高官を含め四百六十人にのぼった。このため、戦後最大の疑獄事件といわれた。
犯罪は社会部の担当、東京地検を担当するのも東京社会部だったから、社会部はロッキード事件の取材、報道に追われた。デスクとしての対応も、事件専任デスクに二人が任命され、事件をさばいた。私はその専任からは外れていたが、この事件のあおりを受けて、通常のデスク業務もけっこう忙しかった。
自分が担当したニュースで印象に残るのは「スト権スト」だ。
そのころ、公共企業体というのがあった。「公共の福祉に密接な関係のある事業で、公共性と企業性とを調和させるため、独立の法人格を与えられている国家的な企業体」(旺文社発行の「学芸百科事典」)で、いうなれば、国家が経営する企業。具体的には、日本国有鉄道、日本電電公社、日本専売公社の三公社と五現業(郵政、林野、印刷、造幣、アルコール専売)であった(これらのほとんどは、その後、民営化された)。
これらの企業体で働く職員は「公共企業体等労働組合協議会」(公労協)に結集していたが、これらの職員は、労働者の権利である労働三権のうち、団結権、団体交渉権は保障されているものの争議権(スト権)は与えられていなかった。そこで、公労協は争議権も与えるよう戦後ずっと要求しつづけていた。
政府が要求を拒みつづけたため、しびれをきらした公労協は「スト権奪還」を掲げて一九七五年十一月二十六日からストに突入した。
当時、公労協は日本の労働運動のナショナルセンターである総評(日本労働組合総評議会。組合員四五七万人)で最も闘争力があるとされていた組合だった。その主力は国鉄の労働者でつくる国鉄労働組合(国労)だった。スト権ストの中心は国労で、国労は全国でストに突入し、国鉄全線がストップした。
ストは十二月三日まで、八日間に及んだ。国鉄史上最長のストだった。これに対し、政府は「違法ストには妥協しない」と強硬な態度を取り続け、結局、労組側は政府から前向きの回答を引き出せないまま、ストを収束した。労組側の敗北であった。
長期にわたって国鉄がマヒしたことで、国民生活への打撃は甚大だった。国鉄労働者の闘いに理解を示す声もあったが、ストに対する批判の声は日ごとに高まり、労組側は世論を味方につけることができなかった。
スト権ストを深刻に受け止めた政府側は、これを機に国鉄の民営化に向けて動き出す。狙いは「国労つぶし」。そして、中曽根康弘内閣の手で一九八七年、国鉄の分割・民営化が実現する。スト権ストから十二年後のことだ。
国労が弱体化したことで、総評の力も低下し、やがて、解散に追い込まれる。そうした歴史をみるにつけ、スト権ストはわが国の労働運動にとって分岐点、分水嶺であったような気がする。そして、こう思ってみたりする。「国労はスト権で徹底抗戦を貫いたが、相手陣営の力、対する自分たちの力についての分析が果たして十分なものだったろうか。余力を残して闘いを収拾し、国民と広く手をたずさえることで、また別な道も開けたのではないか」
いずれにしても、労組ストをめぐる取材は社会部の担当だったから、社会部は戦場のような忙しさだった。このため、スト担当のデスクが二人必要になり、藪内良宣・次長と私が充てられた。
一九七六年十二月六日。この日は夕刊勤務で、午後三時にそれが終わった。その時、社会部長席にいた小林英司部長に「岩垂君、ちょっと」と呼ばれた。部長席に行くと、「君には編集委員になってもらうから」と申し渡された。末端管理職からライターへという異動であった。また現場取材に戻されたのだ。
北埼玉支局長兼浦和支局次長として一年、専任浦和支局次長として三カ月、首都部次長として二カ月、そして社会部次長として一年十カ月、計三年三カ月のデスク勤務だった。短いデスク稼業だったが、この間、私は多くのことを経験し、見聞を広めることができた。そのことは、その後の記者生活にプラスとなった。
とりわけ、原稿執筆にあたっては締め切り時間を厳守すること、できれば締め切り時間より一刻も早く出稿すること、デスクへの出稿は早ければ早いほどいいということを身にしみて体得したことだ。また、誤字、脱字を避けること。さらに、原稿は短く、簡潔に書くよう心がけること。いずれも新聞記者としては当たり前の心得で、入社以来、上司や先輩から口を酸っぱくして言われてきたことばかりだが、自らの体験を通じて、こういうことを今一度、それこそ真剣に自らに課さねばと思い知らされた。
それに、新聞記者として絶えず視野を広げるよう努めること、と同時にものごとを可能な限り客観的にみてゆくことの大切さを教えられたように思う。
新聞記者は洞察力をみがかねば、とも痛感させられた。世の中に起きる事件や出来事を分析することはだれにでもできる。が、新聞記者に求められているのは、そうした能力とともに、それらが今後どう展開するのか、今後、社会にどんな影響を与えるのだろうか、という見通しをもつことではないか。つまり、これからの展望だ。ニュースに接して素早くそうした展望をもつことができてこそ、刻々と発生するニュースについて、報道上の価値判断をくだすくことができるというものだ。
洞察力を身につけるにはどうしたらいいか。それには、多くの情報を得るための努力をすること、そして、集めた情報を分析する能力を身につけることが不可欠だろう。
ともあれ、デスク勤務は、短い期間ではあったが、私にとってまことに貴重な経験であった。
(二〇〇七年一月二十六日記)
|
|
|
|