もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第100回  デスクは激職の「千手観音」

社会部デスク在任中、大きな事件が起きた。田中角栄・前首相の
逮捕もその一つでそれを報ずる1976年7月27日付の朝日新聞夕刊





 北埼玉支局から移った浦和支局での次長としての勤務も、わずか三カ月に過ぎなかった。一九七四年(昭和四十九年)十二月、東京本社首都部の次長に転勤したからである。
 
 首都部とは、東京、神奈川、埼玉、千葉の一都三県の首都圏をカバーしていた部だ。一九六八年十二月、東京本社社会部を社会部と首都部に分割してこの部が生まれた。「首都圏での人口増加が著しいので、それに対応するための報道態勢」というのが会社からの説明だったが、社会部内には「社会部があまりにも大人数になったので、管理できなくなって分割したのさ」「部員が増えたのに、次長ポストはそれに応じて増えない。これでは人事政策上困るので、部を二分して次長ポストを倍増させたのさ」との見方があった。なにしろ、当時、社会部員は百人を超えるまでにふくれ上がって編集局最大の勢力になっていた。いずれにしても、その時、私は社会部に残った。
 
 その首都部へ転勤となったのだ。ところが、なんとその首都部が二カ月後に消滅してしまう。七五年二月、社会部と首都部の合併があり、また元の社会部に戻ったからである。再び百人を超える大所帯となったが、合併にともない、私はそこの次長となった。合併後の次長は約十人だったと記憶している。

 社会部次長(デスク)。それは、聞きしにまさる激職だった。地方支局のそれとは比べものにならないほど過密な労働だった。それは、ある意味で当然であったろう。なにしろ、地方支局でのデスク業務は、一つの県内、あるいは一地域内を対象としたものだったが、社会部のそれは、日本全国、いや世界全体が対象だったからである。
 社会部デスクは、部長から社会面づくりを任せられている。つまり、どんな社会面をつくるか、の判断と実行を任せられているわけで、別な言い方をするならば、社会面について全面的に責任を負わされていることになる(もっとも、編集局内では新聞制作の最終責任は、新聞の編集にあたる整理部にあるといわれていたが)。ともかく、社会面に絶対的な権限をもっていたから、どの記事をトップにするか決めることができたし、原稿をボツ(没)にすることもできた。
 だから、東京・有楽町の本社ビル三階の編集局内にあった社会部のデスク席(それは木製の大きな六角机だった)に座ると、私の場合、いつも、たちどころに、自分の脳裏に日本の地図、ひいては世界の地図が網の目のように広がったものだ。「自分がここに座っている間、世界と日本で刻々と発生するニュースを素早く、しかも正確に反映した社会面をつくらなくては。とくに大事件や大事故には遅れをとってはならない」。そう思うと、緊張で身が引き締まった。当時の朝日新聞の発行部数は約六九〇万部。それを意識すると、一層、緊張感が増した。
 すべてのことを自分一人で即座に判断しなくてはいけない。だれかに頼るわけにはいかない。そういう意味では、デスクに座っている間はひどく孤独だった。
 
 ともかく、デスク業務は、まるで千手観音のような多面的な作業を要求された。まず、締め切り時間をめがけて洪水のように殺到する、出先の部員からの原稿を手早く処理しなくてはならない。要するに、素早く読み通し、添削して、整理部に渡さなくてはならない。不明の点があれば、出先の部員を呼びだして聞きただす。
 社会部が扱う対象は、それこそ森羅万象だから、部員から出される原稿は、実に多岐にわたる。教育に関する原稿が来たかと思うと、次は河川行政に関する原稿や医療過誤に関する原稿、航空各社に関する原稿。かと思うと、労働争議を伝える原稿や国際婦人年についての原稿が来る。果ては地震、火事、水害、交通事故、殺人、強盗の記事……。そのたびに、頭を切り換えて個々の原稿に立ち向かわなくてはならない。まさに「待ったなし」だ。
 その間に大きな事件、事故が起これば、現場へ部員を派遣し、さらに、その部員に指示を与えなくてはいけない。原稿がなかなか来ないときは、呼びだして出稿を急ぐよう催促しなくてはならない。もっとも、とてつもなく大きな大事件・大事故が発生した時は、他のデスクがその専任となり、采配をふるう。
 新聞社間の競争も激しいから、他社の動きにも気をくばらなくてはならない。当時、夕刊帯では、新聞各社間で、夕刊の早版を互いに交換する制度があった。正午過ぎには、他社の夕刊が手元に届く。それにさっと目を通し、抜かれていないか点検する。抜かれていたら、ただちに追いかけるよう部員に号令するというのが通例だった。
 こうした一事でも分かるように、新聞社間の競争は激烈だった。だから、スクープ(特ダネ)は、夕刊でも朝刊でも最終版から入れるのが習わしだった。他社の追いかけを封じるためだ。
 
 原稿を整理部に渡す時間、すなわち締め切り時間は、文字通りデッドライン。デッドライン後に出した原稿は紙面に載らないからだ。デッドラインは一回だけではない。何度もやってくる。夕刊だと三回、朝刊だと五回。その度にデスクは「猛烈な忙しさ」に直面する。
 夕刊帯はとくにすさまじかった。デッドラインとデッドラインの間が短かったからだ。トイレに行く時間もとれず、ずっとデスクに座りづめとなる。
 当時、夕刊勤務となった社会部デスクは、出勤すると、社内の喫茶室からコーヒーをとり、泊まり明け(宿直明け)の部員にふるまうのが習わしだった。ついでに自分用のコーヒーかアイスクリームをとるのだが、私の場合、席についた途端、殺到する原稿の処理に追われ、注文した品を机の上に置いたまま、ついに口をつける暇がなかったこともしばしばだった。コーヒーは冷えて変色し、アイスは溶けてしまった。
 というわけで、社会部デスクは、まさに「殺人的」と言っても過言でないほど多忙な職場だった。デスクの勤務時間は、夕刊は午前八時半から午後三時まで。朝刊は午後三時から夜中の午前二時半から三時ごろまで。
 朝刊勤務を終えて帰路につく時は、刷り上がったばかりの朝刊を手にして車に乗り込む。車内で社会面に目を通す。インクの香りがただよう。「これでよかったかな」と思う。そのうち、窓外で夜が白々と明けてくる。

 夕刊でも朝刊でも、デスク勤務を終えると、ほおがげっそりこけたような感じに襲われた。それだけ消耗が激しかったということだろう。
 通常の勤務は、夕刊、朝刊、明け、サブ(他のデスクの手助け)、休み、といったパターン。でも、企画記事を担当したり、特定のテーマを担当すると、なかなか休みをとれなかった。
 超多忙で、ストレスが強い職場だったからだろうか、私はデスク勤務中、胃潰瘍を患った。軽かったから、手術をしなくてすんだが。

 こうした激職をなんとかこなすことができたのも、頼もしい助っ人がいたからだ。「原稿係」といわれた若い人たちである。多くは学生で、編集局内の各部に配置されていた。学資稼ぎのためのアルバイトだったが、長く続けている人も多く、仕事はベテランの域に達していた。私が入社したころは「こどもさん」と呼ばれていたが、こういう呼び方は失礼だということで「原稿係」に変わった。
 社会部の場合、勤務時間中はデスクの近くに座っていて、デスクの指示にしたがって、電話をとったり、原稿を整理部に運んだり、コピーに携わったり……と、何でもこなした。
 彼らの助けがなかったら、新聞制作は不可能だったと私は思う。まさに縁の下の力持ち的な存在だった。

(二〇〇七年一月十八日記)





トップへ
目次へ
前へ
次へ