もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第99回  「北埼玉対策」の先兵となる

デスク席での筆者(1974年3月、朝日新聞浦和支局で)




 「岩垂君、夏休みで帰郷中のところまことにすまんが、至急、社会部に帰ってきてくれないか。君に北埼玉支局に行ってもらうことになったから」。瀬戸口正昭・東京本社社会部長からの電話だった。一九七三年(昭和四十三年)八月二十七日のことだ。
 「ついに異動か。なら、郷里でゆっくり夏休みというわけにはいかないな」。私は、帰郷先の長野県岡谷市の実家からそそくさと東京へ向かった。
 
 耐え難い酷暑をやり過ごすために、多忙な新聞記者といえども夏にはまとまった休みをとる。朝日新聞社が始めた、甲子園での夏の全国高等学校野球選手権大会(戦前は全国中等学校優勝野球大会といった)も、一つには新聞記者の夏休み対策として始まったんだ、と社内では言われていた。大勢の記者が時を同じくして夏休みをとるとなると、記事が不足する。だから、その間、野球の記事で紙面を埋めようということでこの事業が始まったというのだ。
 その真偽はともかく、このころの私には、夏は一年のうちで最も多忙な季節だった。この時期に例年、原水爆禁止世界大会が東京、広島、長崎を結んで開かれ、民主団体担当の私としては、その取材に追われるからだった。マスメディアにとっては、この時期はいわば“反核の夏”であった。したがって、記者の多くが休みをとっている間は休めず、世界大会が終わったあとの八月末か九月初めに夏休みをとるというのが、それまでの私の決まった勤務パターンだった。
 この年の夏も多忙だった。東京で世界大会国際会議の取材をすませると、八月七日には、長崎へ飛んだ。六日を中心とする広島大会には、一緒に大会の取材にあたっていた同僚の社会部記者が出向いた。私は長崎で長崎大会の取材を終えると、福岡に出て、そこから空路で那覇へ飛んだ。この年は沖縄でも世界大会が開かれたからである。
 十七日には、那覇から伊丹空港を経て京都へ。京都会館でべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の反戦市民運動全国懇談会が開かれたからだ。これを取材して東京に戻ったのが八月二十日。十四日間の出張だった。夏休みをとれたのは同二十五日から。年老いた両親が住む長野県岡谷市の実家に着いたのが、翌二十六日。その翌日に社会部長から呼び出しを受けたというわけで、結局、この年は「夏休みなし」だった。 
 
 社会部長から呼び出しがかかった時、「ついに異動か」との思いが脳裏をよぎったのには、それなりの理由があった。「おれも、そろそろどこかへ出されるのかな」との予感が、しばらく前から私の中で醸成されつつあったからだ。
 当時の東京本社社会部では、入社後十五、六年を経た部員は次長に昇格するというのが人事上の習わしだった。もちろん、部員全員が次長に昇格できたわけではないが、定期入社の部員には、よほどのことがない限り、そうしたコースが一般的であった。もっとも、平部員からダイレクトに社会部の次長に昇格するのは極めてまれで、通常は近隣支局、例えば横浜とか浦和とか千葉などの支局の次長に出るケースや、次長職の支局長(横浜、浦和、千葉の各支局は大きな支局だったから支局長は部長職)に出るケースが大半だった。いずれにしても、次長は管理職の一つで、それもいわば末端管理職といってよかった。
 次長は、編集局内では「デスク」と呼ばれていた。勤務中はずっと机(デスク)に座りつづけ、部員や支局員から提出される原稿を処理したり、事件が起これば、部員や支局員に指示を与え、原稿を書かせるという勤務形態から、そう呼ばれるようになったものと思われる。
 ともあれ、この時、私は入社から十五年五カ月、三十七歳になっていた。社会部では引き続き遊軍だったが、そこでは最年長の一人になっていた。だから「異動があってもおかしくないな」と感じていたわけである。

 九月一日付で私が申し渡されたのは北埼玉支局長兼浦和支局次長だった。北埼玉支局は埼玉県北部の中心、熊谷市にあった。ちなみに浦和支局は県南部の県庁所在地、浦和市(現さいたま市)にあった。
 北埼玉支局は、できたばかりの新しい支局だった。当時、埼玉県北部は、販売面で読売新聞が圧倒的なシェアを誇り、朝日新聞にとっては極めて弱い地域だった。そこで、朝日新聞社はこの地域で読者の拡大を図ることになり、新たに「北埼玉版」という県版を創設した。このため、取材態勢も強化することになり、熊谷市にあった熊谷通信局を七三年三月から北埼玉支局に昇格させた。熊谷通信局は記者が一人だったが、支局昇格とともに支局長一人、支局員五人の陣容になった。支局長には宇野秀・浦和支局次長が任命され、支局員には東京本社管内の地方支局から選ばれた腕利きの記者を投入した。そればかりでない。同市に印刷工場を建設する計画に着手した(その後、これは沙汰やみになった)。
 私は宇野氏の後任で、いわば二代目の支局長だった。私は入社直後に浦和支局に支局員として勤務したことがあり、二度目の埼玉勤務だった。
 私が赴任したときの支局員は鈴木規雄、田村正人、長沢豊、長谷正遠、村田真徹の各記者。「北埼玉対策の先兵」として集められだけに、いずれも優れた記者で、その後も各分野で活躍した。
 なかでも、鈴木記者はその後、論説委員、東京本社社会部長、同編集局次長、大阪本社編集局長などを歴任。が、病を得て、二〇〇六年、定年直前の五十九歳で亡くなった。とくに「平和」「人権」「報道の自由」といった問題に造詣が深く、これらに関する報道をリードした。昨今のマスメディアの動向をみるにつけ、その早世が惜しまれる。
 長谷記者はその後、北海道の小樽勤務となったが、そこで、市民による小樽運河保存運動に出合い、それを積極的に報道し、運河保存のうえで大きな役割を果たした。

 北埼玉支局長としての主要な任務は「北埼玉版」づくり。支局員から出される原稿に目を通し、完全原稿に仕上げて浦和支局へ送る。
 それまでの、原稿を書く立場から、他人の書いた原稿を見る立場へ。他人の原稿を見るという作業は、以前、校閲部にいたことがあるので、すでに経験していた。しかし、こんどは、それとは根本的に違っていた。校閲は、活版部で拾われた活字が記者の書いた原稿通りかをチェックする仕事だったが、こんどは、原稿に書かれた内容を吟味し、正確で読みやすい原稿に整える。つまり、必要とあらば原稿に手を入れ、読者が読むにたえる原稿に仕上げるのだ。支局員が書いた原稿を手にするたびに身が引き締まるのを覚えた。
 原稿を書く立場から原稿を読む立場へ。経験を積むと、眼前の原稿が良い原稿か、まずい原稿か一目でわかるようになった。これは、デスクという業務を通じて、原稿を客観的に眺められるようになったからだったと思う。このことは、自分自身にも決定的な影響を与えた。すなわち、「それまでは、原稿を書くとき、極めて主観的、近視眼的になりがちだったな」との反省が自分の中に芽生え、「原稿執筆にあたっては、自分自身の視点をより客観的、複眼的な位置に置かねば」と思うに至ったのである。
 その時、私は以前、耳にした先輩記者の言葉を思い出していた。それは「新聞記者は、機会があったら一度、デスクを経験するといいよ」というものだった。

 それにしても、「北埼玉版」づくりには時たま苦労した。紙面には地域に根ざしたニュースを大量かつこまめに載せる、トップ記事は北埼玉支局から出す、を原則としていたが、夕方になってもトップ記事にふさわしい原稿が私の手元に届かないことが時折あったからだ。トップにふさわしい記事がなければ、浦和支局がつくる「埼玉版」のトップ記事を転用すればよかったが、それでは北埼玉支局設置の意味がない、との思いもあって、北埼玉版独自のトップ記事にこだわったという事情もあった。
 埼玉県北部は、このころ、農村地帯だった。だから、事件・事故も少なく、平穏そのもの。したがって、私たちは、いつもトップにふさわしい企画記事を用意していたのだが、それも種切れ、あるいは予定通り企画記事ができあがらない、ということがあった。そんな時は、気があせって「管内に火事でも起きてくれないかな」と思ったものだ。まことに不謹慎極まりないが。

 週一回、浦和支局へ出向いた。浦和支局次長が週休をとる時、彼に代わってデスクをする人間が必要だったからだ。当時の浦和支局次長は「ぴんきー」こと小林一喜記者。小林記者はその後、社会部次長、論説委員を経て、テレビ朝日の「久米宏・ニュースステーション」のキャスターになった。名キャスターとして人気を集め、とくに主婦層にうけがよかった。が、不幸にもがんを患い、早世した。当時の浦和支局長は政治部出身の村上洋氏。

 北埼玉支局に赴任して丸一年たった七四年九月、浦和支局に移った。兼任がとれ、浦和支局次長専任となった。これは、小林次長が社会部次長に転じたことにともなう人事だった。

(二〇〇七年一月九日記)





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