もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第3部 編集委員として
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週刊朝日1977年2月18日号の表紙 |
宮本顕治・共産党委員長と岩井章・総評顧問の対談 |
東京本社社会部次長として夕刊のデスク勤務を終えたばかりの時、社会部長から呼ばれ、「君には、編集委員をやってもらうから」と通告された。その瞬間、なんとも言いがたい複雑な感慨に襲われた。
デスクとは、記者の書いた原稿をみて、ちゃんとした原稿に仕上げる末端管理職のことである。編集委員とはライターだ。つまり、他人の原稿をみる立場から自ら原稿を書く立場への配置転換を命じられたのだった。
まず、とっさに「おれは管理職には向かないと判断されたんだな。これでもう管理職コースは閉ざされたわけだ」との思いがひらめいた。と同時に「なんとも残念だな」との思いがわきあがってきた。すでに述べたように、新聞をつくるうえでデスクというポストの権限は絶大である。こうした紙面をつくりたい、こんな企画をやってみたいと思えば、すべてでないにしても、かなり実現させることができる。三年余のデスク勤務を通じてデスクの仕事に少しずつなれ、「よし、こんなこともやってみようか」との意欲が満ちてきていた矢先の異動だったからである。
それに、また取材現場に出てゆくのはいささかしんどいな、という気持ちも少なからずあった。これもすでに述べてきたことだが、新聞社の取材部門ではかなりの体力と知力が要求される。だから「四十代の今はいいが、体力の衰える歳になっても取材の第一線で働けるだろうか」といった一抹の不安が、私の脳裏をよぎったのだった。
そうかと思うと、一方で「再び現場に出られるんだな」という興奮もあった。なんといっても、原稿執筆の苦しさはともかく、取材という仕事はめっぽう面白く、人間をわくわくさせるからだった。
というわけで、社会部長に異動を申し渡されたとき、私の気持ちはなんともアンビバレントなものだった。そのまま帰宅する気にもなれず、社を出て、銀座通りをぶらぶらした。銀座一丁目までくると、映画館「テアトルトーキョー」の看板が目に入った。ロシア革命直後の人間ドラマを描いた『ドクトル・ジバゴ』。私は映画館に入ったが、心は上の空で、最後までスクリーンに気分を集中できないまま映画館を出た。
新聞記者は入社後、一定の期間が過ぎると、分岐点を迎える。管理職コースに行くか、ライターの道を歩むか、の分岐点である。一九七六年十二月六日。それが、私の分岐点となった。
編集委員はライター、と書いた。では、一般の記者とどうちがうのか。『朝日新聞社史 昭和戦後編』(一九九四年発行)には次のような記述がある。
「朝日は(昭和)四十一年十一月一日付で機構改革をおこない、……新しく四本社に、肩書を『編集委員』とする専門記者制度を発足させた。『編集委員』という肩書は、……三十五年三月、整理部の機構改革で登場、同部デスクらに使用されていたが、この新制度による編集委員は、すぐれた専門のライターを育成し、部長や局長などの管理職にならなくても、筆一本の力でそれと同等の処遇をうけられる道をひらいたものだった。これによって記事や紙面制作に特色を出し、メディアの多様化にも対応しようというねらいで、次長クラス以上の経験と実績あるものから選ぶことにした」
編集委員とは、要するに特定の分野に精通する専門記者のことだ。これは、新聞界でも「朝日」が他社にさきがけて創設した制度だった。私は、それに任命されたのだ。
私が編集委員になった一九七六年の暮れには、編集委員は身分的には編集局長直属だった。が、日常の仕事の上では、それまで所属していた部の部長の区処を受けるとされていた。ということは、私の場合、出張などにかかった経費は編集局長に請求して支払いを受けるが、原稿は社会部デスクに出す、ということだった。いうなれば、編集委員になっても出稿に関しては、それまでと変わらなかった。そして、取材に関しては、原則として自分で企画を立て、独自に取材してよいことになっていた。独自性が保証されたポストといってよかった。
編集委員になってよく浴びせられたのは「論説委員とどう違うか」という質問だった。論説委員は、特定の問題に対する社の主張を盛り込んだ「社説」の筆者で、論説委員による合同討議で社の主張の方向が決められ、それを踏まえて担当の論説委員が「社説」を書く。しかし、編集委員は個人の責任で原稿を書く。したがって、原稿に署名することが許される。
もちろん、編集委員といえども社会部デスクからの依頼で取材し、出稿するというケースもあった。社会部員との共同取材もあった。
有楽町の東京本社ビルの四階には「編集委員室」があった。編集委員専用の部屋で、各自そこに机をもっていたが、そこを利用しない編集委員もいた。机が足りなくて入りきれなかったという事情があったうえ、そこへ入ることを望まず、自分が所属していた部に引き続き机を確保し、そこで仕事をする編集委員もいたからだ。
私が編集委員になった時の編集委員のはっきりした数は覚えていない。が、東京本社だけで三十数人いたのではないかと記憶している。編集委員は専門記者だから、それぞれが担当分野をもっていた。警察、交通、スポーツ、年金、環境、電波、司法、政治、経済、国際経済、軍事、文化、文学、演劇、美術、写真……などである。
かくいう私の担当分野は「社会一般」であった。要するに、なんでも屋といってよかった。辞令を受け取るにあたって「こういう分野を取材してほしい」という指示はとくになかった。が、自分では、平和運動を中心とする大衆運動をカバーしてゆけばいいだろう、と勝手に解釈した。社会部では、「民主団体担当」として、平和団体や労働団体、国際友好団体、市民団体などを取材対象とし、記事を書いてきた。その結果として、編集委員を仰せつかったのだから、その延長線上で仕事をしてゆけばいいだろう」と判断したわけである。
思えば、私が東京本社社会部員になったばかりのころ、先輩からよくこう聞かされたものだ。「相田か、疋田か。社会部にとって必要なのはそのどちらかだ。どちらでもない記者は社会部では存在価値がないということだ」
「相田」とは相田猪一郎記者、「疋田」とは疋田桂一郎記者のことだった。二人ともすでに故人だが、どちらも東京社会部の名物記者だった。すなわち、相田記者は当時、警視庁クラブ詰めで、社会部きっての事件記者。一方、疋田記者は深代惇郎、辰濃和男記者らとともに「朝日」を代表する名文記者として知られていた(これら三記者はその後、いずれも朝刊一面のコラム「天声人語」の筆者に抜擢された)。
没後もジャーナリズム界では疋田記者の業績を評価する声が高く、言論・報道の自由などに貢献した記事や企画に毎年ジャーナリスト大賞を授与している新聞労連(日本新聞労働組合連合)は、二〇〇六年から同賞の特別賞として「疋田桂一郎賞」を新設したほどだ。
ともあれ、先輩記者がいいたかったのは、社会部に必要なのは事件に強い記者か、文章のうまい記者であって、それ以外はいらないよ、という意味だったと思う。ということは、社会部に長くいたければどちらかになれ、という忠告であったのだろう、と私は解釈した。
でも、結局、私はそのどちらにもなれなかった。しかし、平和運動などの大衆運動を長期にわたって取材してきたことから、その分野での専門記者とみなされのだろう。だから、存在価値があるとされ、社会部に長期間在籍できたのだろう――と私は思った。
事件記者や名文記者にならなくても、社会部に長くとどまる手だてはあった。部内の派閥に加わることだ。当時は、部内に一大派閥があり、人事面でも影響力をもっていた。だから、部員の間では「その派閥の庇護下に入れば身分的には安泰だ」とささやかれていた。なかには、派閥のボスにとりいる部員もいた。が、ぶきっちょな私にはそんな芸当はできないばかりか、私はそうしたグループに属すことを潔しとしなかった。それに、なによりも、派閥から声がかからなかった。私は、与えられた部署でただひたすら仕事をすることが新聞記者の常道だ、と考えていた。
編集委員としての初原稿は、七六年十二月二十一日付の朝刊四面解説欄に載った「原水禁運動統一へ力」「幅広い参加者、強い意欲」「被爆シンポジウムへの期待」という三本見出しがついた解説記事だ。七七年夏に広島、長崎両市で開催が予定されている、国連NGO(非政府組織)主催の、原爆被害の実態を明らかにするための国際シンポジウムについて論じたものだった。
「週刊朝日」に頼み込んで実現した企画もあった。同誌の七七年二月十八日号を飾った「徹底討論 宮本顕治×岩井章」である。宮本氏は当時、共産党委員長、岩井氏は元総評事務局長で、この時は総評顧問。宮本氏は共産党で絶大な権力をもち、岩井氏は総評労働運動や社会党に強い影響力をもっていた。この時期、民社党、公明党といった中道勢力が勢いを増し、最大野党の社会党は、それまでの社共共闘でゆくか、共産党と手を切って中道勢力と組むか、で揺れていた。そんな情勢をとらえて、私は左翼陣営における代表的な二人によるビッグ対談を企画したのだった。両氏が週刊誌上で対談するのは初めて。私は、その司会を務めた。
(二〇〇七年二月七日記)
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