米原子力空母エンタープライズの佐世保入港に反対して米軍基地突入を図る青年労働者や学生たち=1968年1月、
佐世保市で(反戦青年委員会編集・発行の「反戦」から)
一九六七年(昭和四十二年)から始まった「七〇年闘争」は七五年四月末のベトナム戦争終結によって幕を閉じたが、七〇年闘争でひときわ印象に残るのは、角材や鉄パイプを手に、ヘルメットを被り、手ぬぐいで覆面して街頭で機動隊と激しくわたりあう若者たちの登場だった。日本のそれまでの大衆運動は非暴力を原則としていたから、その過激な実力闘争は、社会を震撼させた。当然、それに対し、賛否両論が巻き起こったが、国民の多くは過激な闘争に否定的だった。このため、大半のマスコミは彼らを「暴力学生」あるいは「暴徒」、やがて「過激派」と呼んだ。私自身は、記事を書くにあたってこうした呼称は使わなかったが。
過激な行動に走った若者たちの主体は大学生だった。高校生のごく一部もこれに加わった。一部の若い労働者もこの流れに合流した。
こうした若者たちを引っ張っていたのは「反権力」「革命」を呼号する反代々木系の政治党派(セクト)であった。革マル派、中核派、社学同、ML派、解放派、第四インター、フロント、民学同、……。一時は五流十三派もあるといわれたものだ。過激な行動に参加した学生がすべてこれらのセクトに所属し、あるいはその影響下にあったわけではない。むしろ、学生の多くはこれらのセクトにしばられるのをきらい、自由な立場で行動する行き方を好んだ。そして、自らを「ノンセクトラジカル」と称した。ノンセクトとは非党派のことである。
一方、セクトに属する若い労働者たちは、自らを「反戦青年委員会」と名乗った。
すでに述べたように、街頭での過激な実力闘争は反代々木系各派の活動家が主導したが、その活動家や学生たちが拠点とした大学での闘争では、むしろ、ノンセクトの学生たちが闘争をリードした。その中で、それらの学生たちによって結成された全学的共闘組織が「全共闘」だった。各大学の全共闘は、それぞれ要求を大学当局に突きつけ、「大衆断団交」をおこなった。
六九年九月には、東京で東大、日大、京大など全国百八十大学の全共闘と、中核派、社学同、解放派、フロントなど八党派が集まり、「全国全共闘連合」を結成した。
このようないきさつから、マスコミは七〇闘争に参加した学生たちを総称して「全共闘世代」と呼ぶようになった。この世代は、戦争直後のベビー・ブームが生んだ、いわゆる「団塊の世代」と重なる。
この時代、過激派とそれに同調する若者たちが掲げたスローガンは「ベトナム反戦」であり、「安保粉砕」であり、「成田空港粉砕」であり、「大学解体」などであったが、彼らはこの世のすべての既成秩序や権威、権力を否定し、それらを実力で破壊しようとした。だから、「学生の反乱」とか「学生の反逆」とかいわれた。
それにしても、彼らはなぜ、それほどまでにいらだち、荒れ狂い、既成の価値や権威や秩序に反逆したのか。
このことは、取材にあたった当時から、ずっと私をとらえていたテーマだったが、当時も、その後も納得のゆく回答を得られないまま歳月が流れてしまい、いまだにこれだという結論を出せないでいる。
しかし、大変平凡な結論だが、これは六〇年反安保闘争後の日本経済の、異様ともいえる高度成長が産み出した社会的なひずみに対する若者たちの異議申し立てではなかったか、そして、当時の世界情勢が若者たちの異議申し立ての追い風になっていたのではないか、と考えるようになった。
六〇年反安保闘争後、当時の池田勇人・自民党内閣は「所得倍増計画」を打ち出した。これにより、日本は高度経済成長時代に突入する。経済成長率は驚異的な伸びを示し、実質GNP(国民総生産)の年成長率は一〇・九%(一九五九年〜一九七三年)に及んだ。世界でもまれにみる高度成長であった。
こうした高度成長は日本を経済大国に押し上げ、日本人の消費生活の水準を高めたが、その一方で、急速に環境破壊、公害などの社会的ひずみをもたらした。
高等教育の面でも顕著なひずみが露呈した。国民の所得が増えるにつれて、大学進学者が急増した。それまで大学に進学できるのは少数のエリートだったが、もはや大学生エリートではなくなった。大学は大衆化したのだった。
大学の大衆化に対し、大学は適切に対応できなかった。あるいは適切に対応しなかった。この結果、大きな希望、期待をもって大学の門をくぐった学生たちが出合ったのは、すし詰めの大教室、お粗末な講義というマスプロ教育だった。学生たちの失望と不満は大きかった。大学側は学生急増に対処するために授業料を値上げしたり、施設の管理強化に乗り出す。これが、学生の間に不満を蓄積させてゆく。
これら一般学生の不満は、やがて大学紛争という形で火を噴く。六五年一月の慶応大学における学費値上げ反対全学スト、六六年一月の早稲田大学における授業料値上げ反対・学生会館運営参加要求スト、同年十一月の明治大学における授業料値上げ反対の無期限スト突入などは、そうした大学紛争の先がけだった。これらの大学紛争は、いわば六七年から始まる七〇年闘争の前ぶれといってよかった。大学を占拠していた学生たちは、政治課題を掲げて街頭に飛び出す。
一方、高度経済成長は、大企業の職場を一変させた。大量生産を目指して機械化、ベルトコンベヤー化が導入された。労働は著しく単純化された。朝日新聞は六九年十月に連載した『若さの論理 70年安保第二部』で電機業界の労働現場の実情をこう書いている。
「極度に分業化した作業システム。ベルトコンベヤーで流れてくる部品にネジをさしこむ作業を、一日二千五百回もくり返す単調さ。すべて人間より機械が優先するという疎外感。それが彼らにはがまんならないと訴える。『コンベヤーで流れてくる部品をなぎ倒したくなる』―そんな衝動のハケ口を、どこにもとめればいいのか。労組は賃上げに熱心だが、疎外からの脱出までは考えてくれない」
「あるものは、政治活動を閉じこめてきた電機労連の体質に反発して、反戦青年委の広場を選んだという」
そこには、労働現場での疎外感から逃れるために、七〇年闘争に加わる青年労働者が紹介されていた。
加えて、世界情勢が日本の若者たちに決起を促していた。まず、激化するベトナム戦争である。とりわけ、民族独立を求めて小銃とサンダルで巨大な軍事力を誇る米軍に立ち向かう南ベトナム民族解放戦線兵士の姿が、若者たちの胸を揺さぶった。戦うベトナムの人たちへの共感が、彼らを行動に駆りたてた。そして、中国で燃えさかっていた文化大革命。その巨大なうねりの主役である紅衛兵は「造反有理」と叫んでいた。反逆には道理がある、というのだ。日本でも、紛争中の大学に「造反有理」と大書された張り紙が掲げられた。世界は、まさに怒濤のような「反逆」の季節だったのだ。
この時代、若者の過激化は日本だけの現象ではなかった。欧米でも同様の現象が起こり、いわば西側世界に共通の社会現象であったと言ってよい。
いずれにせよ、七〇年闘争はその後の日本社会に深刻な影響を及ぼした。その一つは、セクトに対する嫌悪感が強まったことだ。
七〇年闘争に加わった若者たちの訴えに政府は耳を傾けようとはしなかった。むしろ、徹底的な警備態勢の強化でこれを取り締まろうとした。力による制圧だった。これに対し、一部のセクトはその闘争をいっそう先鋭化、過激化させた。その代表的なケースが「赤軍派」、そして「連合赤軍」だった。
赤軍派は、セクトの一派、ブント(共産主義者同盟)の一部が大学闘争、街頭闘争を検討した結果、「早急に軍隊を組織し、銃や爆弾で武装蜂起せねばならぬ」として結成した。一方、京浜工業地帯の労働者・学生によって結成された「京浜安保共闘」も武装闘争を打ち出していた。この赤軍派と京浜安保共闘によって七一年に結成されたのが「連合赤軍」である。
よく知られているように、連合赤軍の五人が七二年二月、軽井沢の浅間山荘に人質をとって立てこもり、機動隊との間で十日間にわたり銃撃戦を繰り返す事件が突発した。結局、人質は救出され、五人は逮捕されたが、警官二人が死亡した。浅間山荘事件である。その直後、連合赤軍の十二人が妙義山中でリンチを受け、殺されていたことが明るみに出た。
これら一連の事件に、多くの人が「陰惨きわまりない」と衝撃を受け、過激派に対する拒絶感がいっきに高まった。さらに、いくつかのセクト間の内ゲバが激化し、死傷者が続出したことも過激派に対する拒絶感を加速させた。
武装路線と内ゲバと。この二つによって生じたセクトに対する嫌悪感は、その後、一般学生の間に急速に広がり、しかも長期にわたって続くことになる、いまでも、学生たちの間では、セクトやセクト的なものへの拒否反応が強い。そればかりか、組織ないし組織的なものにあからさまな拒否反応を示し、できるだけそれらから遠ざかっていようとする。市民運動の関係者は「若い人たちの参加が少なくて。とにかく、若い人は組織嫌いで」と嘆く。七〇年闘争の後遺症はいまなお続いているようだ。
もっとも、全共闘の活動家には、その後、地域に入って環境保護、反戦平和、保健医療などの分野で地道な活動を続けている人もいる。近年、テレビなどでおなじみの鎌田實・前諏訪中央病院長もその一人だろう。
鎌田氏は一九四八年に東京で生まれた。東京の大学医学部を卒業後、長野県茅野市の諏訪中央病院に赴任し、地域医療で画期的な実績をあげ、全国的に注目されるに至った。同氏は、その著書『命があぶない 医療があぶない』(医歯薬出版株式会社、二〇〇一年刊)で書く。
「卒業すると、大学医療のあり方を否定してきたぼくは、大学から離れて、医者がいなくて困っている信州へ出た。東京から離れたのは、結局ぼく一人だったと思う。全共闘運動のなかでいい続けていた『自己否定』というキーワードを大事に続けてみようと思い、誘われるまま地域へ出た。ぼく流のおとしまえのつけ方であった」
七〇年闘争は、このような人物を生んだのだ。
(二〇〇六年十月二十三日記)
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