もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第97回 最高裁問題と朝霞事件






問題になった「週刊朝日」1971年4月23日号の記事




 一九六七年(昭和四十二年)から一九七五年(昭和五十年)にかけて展開された、革新陣営による「七〇年闘争」は日本を震撼し続けたが、私が働いていた朝日新聞社もまた、この時代、自らの報道によって揺さぶられた。最高裁問題と朝霞事件によってだ。

 最高裁問題の発端は、一九七一年四月二十三日付「週刊朝日」の「最高裁裁判官会議の全容 8対4でクビになった宮本判事補」という記事と、同月十三日付朝日新聞夕刊の「再任拒否の内幕」という記事である。
 これらの記事に出てくる宮本判事補とは、当時、熊本地方裁判所の宮本康昭判事補であった。裁判官は十年の任期を終えると再任期を迎える。宮本判事補も七一年に再任期を迎えた。よほどの理由がない限り再任されるというのがそれまでの習わしだったが、最高裁はこの年の三月十七、二十四、三十一日の三回にわたる裁判官会議で、宮本判事補の再任拒否を決めた。拒否の理由は明らかにしなかった。このため、宮本判事補再任拒否問題ががぜん、世間の注目を集めるに至った。
 約一年前の七〇年四月に岸盛一最高裁事務総長が「政治的色彩を帯びた団体に裁判官が加入するのは好ましくない」という趣旨の談話を発表していたため、宮本判事補が青年法律家協会(青法協)の会員であることが問題にされたのではないか、という見方がマスコミでは強かった。青法協は、憲法、民主主義、平和を守ることを目標に若手の弁護士、裁判官、学者らで結成された団体だった。
 「週刊朝日」と夕刊の記事は、再任拒否の理由を最高裁裁判官会議の内容に迫ることで明らかにしようとしたものだった。とくに「週刊朝日」の記事は、十五人からなる最高裁裁判官会議の内幕を、あたかも会議に居合わせたように詳細に報じ、出席した裁判官一人ひとりの見解を星取り表のような○×式で明らかにしたものだった。夕刊の記事も○×式こそとってはいなかったものの、「週刊朝日」の記事とほぼ同じ内容であった。

 これらの記事が出ると、最高裁事務総長は「すべて推測に基づくねつ造」として、朝日新聞社に記事取り消しと謝罪を要求してきた。これに対し、「朝日」は最高裁に誤っている具体的な個所をあげるよう求めたが、最高裁は「その問いには答えられない。ともかくまったくの誤りである」というだけ。会議の内容は秘密だから、こことここが訂正個所と言えば、その他の個所は正しいということになるからこちらかは指摘できない、ということだった。
 朝日新聞社は東京本社社会部を中心に司法関係に詳しい記者を動員して、最高裁裁判官にあたって調査した。その結果、記事の核心部分で誤りがあることが確認された。それは、
十五人の裁判官の見解を○×式で表示したなかに二、三人の間違いがあることだった。
 このため、四月二十八日付朝刊一面に「最高裁に遺憾の意を表明」という三段見出しの記事を載せた。そこには「朝日新聞社は、週刊朝日については、事実に相違し、表現上も穏当を欠くものがあり、また本紙夕刊については誤りがあるので、遺憾の意を表明した」とあった。
 さらに、その後も調査を続け、その結果に基づいて、五月二十九日付朝刊に「常務取締役田代喜久雄」の署名入りで「遺憾の意表明について」と題する文章を載せた。その中で、田代常務は問題の記事について数カ所の誤りや表現の穏当でないところを訂正し「慎重な調査が必要であったために、読者のみなさんへのご報告が今日まで遅れる結果となったことを深くおわびします」と述べていた。
 
 問題の夕刊の記事は社会部員が書いたものだったから、社会部も火の粉をかぶった形となり、対応に追われた。その社会部員は「週刊朝日」の記者からデータをもらって記事を書いたのだったが、週刊朝日の記者はだれからネタをもらったのだろうか。最高裁判事と親しい弁護士がネタ元で、その弁護士と「週刊朝日」とは長いつきあいがあり、信頼できる人物なので、彼の話をもとに原稿を書いたようだ、と私は聞いた。
 いずれにせよ、最高裁の記事取り消しと謝罪要求に対し、社会部内では反発する声が強かった。「記事に間違いがあるというなら、最高裁自身がここが事実と違う、と指摘すべきだ」「権力に屈すべきでない。断固闘うべきだ」。が、会社の上層部は「取材上の誤りがあったときは、みずから反省し、自戒することが、これまで大事に育てあげてきた言論の自由を守るために、もっとも必要であると考えているからです」(五月二十九日付社説)として、事態収集を急いだ。
 そのうえ、編集担当・常務取締役、東京本社編集局長、出版担当、出版局長、「週刊朝日」編集長らを減給処分とし、出版担当、出版局長を更迭。併せて広岡知男社長の主筆兼任が発令された。社長の主筆兼任は朝日新聞創刊以来初めてのことだった。最高裁問題が朝日新聞社にとっていかに重大な事件であったかがこのことからも理解していただけるだろう。
 後任の出版担当になった渡辺誠毅常務取締役(その後、社長を歴任)は出版局の次長以上を招集した席で「あたかもその場に居あわせたかのような調子で、臨場感あふれるような描写がなされているが、そこに今回の書き方、態度に初めから無理があった」と述べた。
 原稿執筆にあたっては、あくまでも自分の目と耳で確かめた事実に基づいて書くべきで、伝聞で書いてはならない。そして、読者の興味をひくための修飾は避けなくてはいけない――最高裁問題を機に、私は取材・執筆の原則を改めて自分に言い聞かせた。
 
 話はそれるが、再任を拒否された宮本康昭判事補は弁護士に転身した。それから約三十年後、すでに新聞社を退職していた私はひょんなことから宮本弁護士の面識を得た。そして、出身高校の同窓生の集まりで講演をしてもらった。テーマは司法改革。私はそれを聴きながらかつての最高裁問題を思い出していた。

 最高裁問題のほとぼりがさめないうちに起きたのが、朝霞事件にからむ不祥事だ。
 七一年八月二十二日午前一時、埼玉県の陸上自衛隊朝霞駐とん地をパトロール中の一場哲雄二曹(当時陸士長)が右腕二カ所を鋭い包丁で刺されて死亡しているのが見つかった。朝霞事件である。埼玉県警の捜査で、主犯格の京浜安保共闘活動家と自称する元日大生、菊井良治ら数人が逮捕されたが、菊井の自供から、七二年一月、朝日新聞出版局「朝日ジャーナル」編集部記者が証拠隠滅の容疑で逮捕された。
 『朝日新聞社史』によると、「朝日ジャーナル」編集部記者への容疑は、菊井が事件直後の八月二十三日、以前から知り合いだった同記者に朝霞事件の原稿を売り込みにきて、自分たちが殺害したという証拠として一場二曹から奪った「警衛」の腕章と擬装用の自衛官のズボン一本を同記者に預けたが、事件発覚後、同記者は預かった腕章などを、事情を知らない出版局の友人に頼んで焼却したというものだった。同記者も埼玉県警の取り調べにこの事実を認めた。
 朝日新聞社は一月十九日付で「取材活動を逸脱した行為であり、本社の服務規定に反した」として同記者を退社処分にし、翌二十日付朝刊でこれを発表した。さらに、二月一日付の朝刊に社告を載せた。そこには、出版局幹部の処分と「再びこのような不祥事を起こさぬよう対策を立て、直ちに実行することにしました」との決意が述べられていた。

 この不祥事は社員に強い衝撃を与えた。とくに出版局では、事件にからんで家宅捜索を受けたこともあって捜査当局に対し反発の声が強かった。そして、社内で、記者の取材のあり方をめぐって、議論が起きた。
 社内報もこの問題にからんで取材はどうあるべきか、といった視点で特集を組んだが、そこで、司法記者として知られる先輩記者はこう述べていた。
 「取材はあくまで果敢に対象に肉薄しなければ、優れたニュースが得られないことは、いつでも変りない。こんどの事件が起きてから『のめりこみすぎる』との批判があちこちにある。たしかにその事実はみられる。けれども私は取材、特に事件取材には『のめりこむほどの精神』がなければダメだと思う。真白いワイシャツを着て、部屋でぬくもりながら議論を重ねているばかりでは、生きいきしたスクープはできない。汗を惜しまず、ともに怒り、時に泣く、人間のこころは記者に大切だと思う」
 「ただしかし、私たちはそうであっても、あくまで『新聞記者の立場』にあることを忘れてはなるまい。報道人といえども、決して法のワク以外の『聖域』にいるのでないし、心情的に同調しても、行動は別でなければならない。胸は燃えてもあくまで頭はクールに、取材、表現は細心でありたいと思う」
 私も自らを戒めた。「胸は燃えても頭はクールに」を基本に日々取材に当たらなくては、と。
 ところで、朝霞事件は、当時、全共闘の学生たちの間で人気のあった竹本信弘(滝田修)京大助手が指名手配され、十一年後に逮捕されるなど、ナゾめいたことの多い事件だった。

(二〇〇六年十一月四日記)





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