もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第95回 七〇年闘争を総括する


べ平連系の人たちによって設立された(有)週刊アンポ社が発行した
『週刊アンポ』創刊号(1969年11月17日発行)。『週刊アンポ』の
狙いは「安保をつぶせ!」「沖縄を私たちの手に!」「日本を私たち
の手に!」をなしとげることにあると書かれていた




 一九七五年(昭和五十年)四月三十日のサイゴン陥落により、いつ果てるとも知れなかったベトナム戦争が終結した。その報に接した時、私の中でわき起こってきた感慨があった。「これで、七〇年闘争も終息を迎えたな」という感慨である。

 いわゆる「七〇年闘争」とは、一九七〇年を視野に六七年から革新陣営によって続けらてきた大衆的な運動である。運動の担い手は社会党、共産党といった政党、総評などの労働組合、これらの政党・労組と友好的な大衆団体、反代々木系の政治党派と学生団体、ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)などの市民団体だった。
 運動の課題は三つあった。「ベトナム反戦」「沖縄返還」「安保破棄」である。しかも、三つの課題は相互に関連していた。つまり、日本政府が米国のベトナム政策を支持し、在日米軍基地がベトナム戦を戦う米軍の後方基地になっているのも日米安保条約があるからであり、米国の施政権下にある沖縄で基地災害、米軍犯罪が激発しているのもそこに米軍基地があって、そこからベトナムへの出撃がなされているからだった。その沖縄では、基地災害、米軍犯罪に苦しむ人々が「軍事基地を認めない平和憲法をもつ日本のもとに復帰したい」と声をあげていた。それだけに、革新陣営にとっては、日米安保条約はなんとしても破棄されねばならなかったのだ。
 時期的にみても、これらの課題は密接にからんでいた。まず、ベトナム戦争は、六五年二月の米軍機による北ベトナム爆撃(北爆)によって一段とエスカレートし、米国軍のベトナムからの撤退を要求するベトナム反戦運動が世界各地でほうはいとわき起こった。日本でもベトナム戦争激化といった事態に呼応して、革新陣営によるベトナム反戦運動が一気に熱を帯びるに至ったのだった。
 沖縄返還に関しては、国民の要求を無視できなくなった佐藤栄作首相が六七年十一月に米国を訪問し、ジョンソン米大統領との間で「両三年内に返還時期について合意する」との共同声明を発表したことから、沖縄における日本復帰運動と、これに呼応した本土での沖縄返還運動がこの時期から一気に加速することになった。
 それから、日米安保条約がこの時期、一つの節目を迎えつつあった。同条約は、革新陣営による戦後最大といわれる大規模な反対運動にもかかわらず、一九六〇年に改定された。この時の安保条約改定反対運動はその後、「六〇年闘争」と呼ばれるようになった。その新安保条約はそれから十年後の一九七〇年に改定期を迎えることになっていた。すなわち、一方が破棄通告をすれば条約は解消され、双方とも破棄通告しなければ自動的に延長される手はずだった。革新陣営としては、一九七〇年には条約の自動延長を阻止しなくては、と考えていた。
 というわけで、六七年から、革新陣営による「七〇年闘争」が始まったのだった。

 七〇年闘争は期間の長さ、街頭デモの規模と激しさで六〇年闘争をしのいだ。それを示すデータを示そう。七〇年暮れに警察庁が発表した六〇年闘争と七〇年闘争の比較だ。同庁は六〇年闘争の期間を五九年四月から六〇年十月(一年七カ月)、七〇年闘争のそれを六七年十月から七〇年六月(二年九カ月)としている。
<集会・デモ動員数>
六〇年闘争    四六三万七〇〇〇人
七〇年闘争   一八七三万八〇〇〇人
<一日最大集会・デモ動員数>
六〇年闘争   全国=六〇年六月四日・五〇万五〇〇〇人
           東京=同年六月一八日・一三万七〇〇人
七〇年闘争   全国=七〇年六月二三日・七七万四〇〇〇人
           東京=同・一四万六九〇〇人
<検挙者数>
六〇年闘争     八八六人
七〇年闘争  二万六三七三人
<負傷警察官数>
六〇年闘争    二二三六人
七〇年闘争 一万四六八四人
<出動警察官数>
六〇年闘争    約九〇万人
七〇年闘争   約六六五万人

 当時のデモの激しさがわかろうというものだ。こうなった要因の一つとして、とくに反代々木系各派の過激な実力闘争があげられる。角材、鉄パイプなとを携えたデモは、それまでの日本の大衆運動ではみられなかったものである。しかも、反代々木系各派の主体は学生だった。学生たちはそれぞれの大学をバリケード封鎖して占拠し、そこを拠点に街頭に繰り出した。全国の大学の多くは授業ができない事態に陥った。
 学生らのこうした過激な行動によって、第一次羽田事件、第二次羽田事件、佐世保事件、新宿騒乱事件などが引き起こされたことはすでに紹介した。それだけに、彼らの実力闘争は社会に衝撃を与え、「暴力はやめよ」との非難を浴びた。

 ともあれ、東京では、それこそ毎日のように集会やデモがあった。それは、日曜日にもあったため、私は日曜日といえどもなかなか休みをとれず、休みは月に一回、という時期もあった。これでは私一人でとても対応できず、私は社会部長に増援を申請した。その結果、六九年四月から、豊田充記者が私とともに七〇年闘争の取材にあたった。
 二人体制になったので、大まかに分担を決めた。私が、主に社会党、共産党、総評系の団体(当時のマスメディアからは「旧左翼」と呼ばれていた)。豊田記者は主に反代々木系各派とべ平連(こちらは「新左翼」と呼ばれていた)という分け方だった。もちろん、その時々の都合で互いにカバーしあった。

 こうした七〇年闘争も七二年以降、急速にしぼんでゆく。なぜなら、まず、日米安保条約が七〇年六月二十三日に自動延長となり、革新陣営としては、安保反対運動の手がかりを失ったことがあげられる。いわば、政府にうっちゃられた形で、このため「安保を廃棄して米・中・ソ各国と不可侵条約を結ぶための護憲・民主・中立の政府樹立をめざす」(社会党声明)、「七〇年代に安保を廃棄する民主連合政府の樹立を国民のみなさんに訴える」(共産党声明)という長期的な方針に転換せざるをえなかった。
 第二に、日米両国政府の沖縄返還協定に基づいて七二年五月十五日に沖縄の施政権が日本に返還され、沖縄問題に一応のピリオドが打たれたことがあげられる。
 そして、残るベトナム問題で、七三年一月二十八日に停戦が実現、その約二年後にサイゴン陥落=ベトナム戦争終結がもたらされた。ベトナム戦争激化を機に生まれたべ平連はそれより以前の七四年一月に解散していた。
 要するに、革新陣営が取り組んだ三つの課題は、一応の解決をみるか、あるいはヤマを越したのだった。

 さて、七〇闘争をどう評価したらいいだろうか。
 大衆運動をみる場合は二つの視点からの検討が必要とされる。一つは、目標が達成されたかどうかという点、もう一つは、運動を通じて味方の側、すなわち運動組織の結束が強まったかどうかという点だ。
 第一の点からいえば、日本のベトナム反戦運動は世界のベトナム反戦運動の一環としてベトナム停戦を希求する世界世論の形成に寄与したことは確かであり、戦争遂行を目指した米国政府に打撃を与えたことも事実と思われる。また、ベトナム人民を勇気づけたことも無視できないだろう。が、すでに述べたことだが、米国政府のベトナム政策を一貫して支持し続けた日本政府の外交政策をついに変更させることができなかったこともまた事実である。
 さらに、沖縄還問題では、施政権返還という目標を達成したものの、日米両国政府ペースで調印された返還協定をくつがえすことができず、内容に修正を加えることもできなかった。つまり、米軍基地撤去を含む「即時無条件全面返還」を掲げて運動を展開したが、結局、政府が進めた「核抜き・本土並み」という形での沖縄返還となった。米軍基地はそのまま存続することになったのだ。そのうえ、安保条約問題では、安保条約の破棄を掲げながら、政府による自動延長を阻むことができなかった。
 第二の点からみても、革新陣営全体の結束が強まったとは言い難い。七〇年闘争は最初から社会党・共産党ブロック、反代々木系各派、べ平連を中心とする市民団体、という三つの潮流によって進められたが、この三つの潮流は最後まで一つに合流することはなかった。そればかりでない。共産党と反代々木系各派の対立は激化する一方だったし、社会党・共産党ブロックにおいてさえ、社共両党間の根深い対立から、共闘といっても「一日共闘」の枠を出ることはなかった。六〇年闘争では、まがりなりにも「安保条約改定阻止国民会議」という革新陣営を包含する共闘組織ができたが、七〇年闘争では、ついにこうした類の組織はできずじまいだった。
 投入されたエネルギーの巨大さにひきかえ運動全体としては迫力を欠いた、というのが私の七〇年闘争に対する取材を通じての率直な印象だった。

(二〇〇六年十月十四日記)





トップへ
目次へ
前へ
次へ