出版物は競って「ベトナム戦争」を特集した。朝日ソノラマの特集号(1968年4月号)の表紙(左)と裏表紙(右)
日本でベトナム反戦運動が高揚した原因は何か。さまざまな原因が考えられるが、メディアによる報道が大きな役割を果たしたのではないか、と私は思う。
南ベトナムでは、一九六〇年(昭和三十五年)に南ベトナム民族解放戦線が結成され、南ベトナム政府軍との戦闘が始まり、内戦が激化する。南ベトナム政府を支援する米国が南ベトナムに南ベトナム援助軍司令部を設置したのは一九六二年で、この米軍の直接介入によって、戦争はいっそう激化する。これにともなって、ベトナム戦争をめぐる報道戦も活発化し、各国の報道機関は競って記者やカメラマンを戦場に送り込んだ。フリーのライター、カメラマンも南ベトナムへ向かった。
日本でベトナム戦争に関する報道が盛り上がるきっかけとなったのは、毎日新聞の『泥と炎のインドシナ』であった。一九六五年一月四日から三十八回にわたって連載されたルポルタージュで、執筆したのは大森実外信部長(その後、国際問題評論家)以下五人の特派員だった。ベトナム戦争の実態をリアルに伝えたこの連載は大きな反響を巻き起こし、その年の日本新聞協会賞に輝いた。
この「毎日」による報道を機にベトナム戦争をめぐる報道戦は熱気を帯び、日本人記者によるルポがつづく。
例えば、同年三月二十日付の朝日新聞に東京本社社会部・瀬戸口正昭記者(その後、社会部長、名古屋本社編集局長を歴任。故人)のルポ「ベトコン解放村にはいる」が載った。当時、日本のメディアの多くは南ベトナム解放戦線を「ベトコン」と呼んでいた。
朝日新聞社史は書く。「サイゴン入りした瀬戸口のねらいは、解放戦線を内側から取材することであった。というのは、これよりさき、毎日新聞は六人の記者を南ベトナムに派遣し、同年一月から『泥と炎のインドシナ』と題するルポルタージュを連載したが、それは政府軍占領地区からの取材を中心とするものであった。そこで朝日は解放地区からの取材を試みたのである」「サイゴンにおける日本人記者仲間での解放地区一番乗りであった」
当時の報道戦の激しさがわかろうというものだ。
朝日新聞は、その後、六七年五月二十九日から半年間、六部九十六回にわたって『戦争と民衆』を連載する。東京本社社会部・本多勝一記者(その後、編集委員)、大阪本社・藤木高嶺写真部員のコンビによるベトナム・ルポだった。解放戦線側、南ベトナム政府側、双方からの取材に基づき、戦争にしいたげられ、苦しみ、嘆く民衆の姿を生々しく伝えたもので、読者から多数の投書が寄せられるなど、大きな反響を呼んだ。
朝・毎の報道合戦といえばこんなこともあった。六五年九月、毎日新聞の大森実外信部長が日本人記者として初めて北ベトナムの首都ハノイ入りに成功し、同月二十六日付の同紙朝刊に「ハノイ第一報 中共と強い連帯感 徹底抗戦へ国ぐるみ」と題する記事を掲載した。
ハノイ入りについては、報道各社がなんとか実現させたいとさまざまルートを使って試みていただけに、「毎日」の壮挙は各社を驚かせた。当時、ハノイに常駐していたのは日本共産党の機関紙「赤旗」など共産党系のメディアの特派員で、西側の記者がハノイ入りした例はなく、それだけに「毎日」の現地発第一報は国際的なスクープとなった。
遅れをとった「朝日」は、秦正流・外報部長(その後、大阪本社編集局長、専務取締役などを歴任)が一週間後にハノイ入りし、十月三日付の朝刊に「決意秘める北ベトナム」「生活に溶込む抗戦」「工員、弾帯まいて作業」などといった見出しがおどるハノイ発の記事を書いた。
大森、秦両記者の北ベトナム報道は米国政府をいらだたせたが、それまで情報がほとんどなかった「北」側の抗戦の様子をじかに伝えたものとして、日本国民の関心を集めた。
こうした大新聞社の記者によるベトナム報道以前に、個人で「ベトナム」に挑んだ先駆的な人たちがいた。
例えば、写真家の岡村昭彦(故人)である。PANA通信社の契約特派員として一九六二年に南ベトナム政府軍に従軍、六五年に『南ヴェトナム従軍記』(岩波新書)を著して、ベストセラーになった。やはり写真家の石川文洋氏(その後、朝日新聞出版局写真部員)は、六四年のトンキン湾事件の直後に初めて南ベトナムの土を踏み南ベトナム政府軍に従軍、戦争の最前線の実態を伝える数々の作品を発表して注目を集めた。
写真家といえば、沢田教一の仕事も忘れがたい。沢田はUPI東京支社に入社し、一九六五年に特派員として南ベトナムのサイゴンに赴任、米国海兵隊に従軍した。その時、川を渡る母子の姿を撮る。「安全への逃避」と題されたその写真は、六六年にピュリツァー賞を受賞する。それは、ベトナム戦争を象徴する写真の一枚となった。私は、いまでも、ベトナム戦争と聞くと、たちどころにこの作品が脳裏に浮かんでくる。彼は七〇年、カンボジアで何者かに狙撃され、死亡した。
初期のベトナム報道では、作家の開高健(故人)の仕事も記憶に残る。開高は、朝日新聞出版局の秋元啓一・出版写真部員とともに六四年十一月に「週刊朝日」から南ベトナムに特派され、激化しつつあったベトナム戦争の現況を週刊朝日などに発表、人気を呼んだ。秋元部員はその後、沖縄返還運動の報道でも活躍し、私は取材先の沖縄でよくいっしょに泡盛を飲み交わしたが、若くしてがんで亡くなった。
開高が南ベトナムで取材していたころの読売新聞サイゴン特派員が日野啓三(故人)。日野はその後、作家として知られるようになる。
メディアが情報の受け手にもたらすインパクトという点では、活字より映像の方が上だ。さらに、映像でも静止画面の写真と、動く画面のテレビとでは、格段の差があるといってよい。つまり、テレビの方がはるかに受け手に与える衝撃度は強いのだ。
ベトナム戦争は、テレビが本格的に報道に参画した初めての戦争だったといわれる。テレビを通じて、戦争が文字通りお茶の間に飛び込んできた。かつては戦争とは活字と写真で伝えられるものだったが、テレビという伝達手段が登場したことで、戦争はリアルタイムで市民に伝えられることになったのだ。
ベトナム戦争のテレビ報道では、六五年に日本テレビから放映された「南ベトナム海兵大隊戦記」が印象に残る。プロデューサーは牛山純一(故人)。が、三回に分けた放映のうち初回の放映が政府から「内容が残酷すぎる」と抗議を受けたことから、日本テレビは二、三回目の放映を中止し、「政府の抗議は反米意識をあおりかねない番組への政治圧力では」と問題となった。
雑誌も競ってベトナム戦争を特集した。六五年に限っても、『世界』の臨時増刊号「ヴェトナム戦争と日本の主張」が十二万部、『アサヒグラフ』臨時増刊「戦火のベトナム」が三十万部以上、『文芸』九月増刊号「ヴェトナム問題緊急特集号」が約十万部。、いずれも、直ちに売り切れた。
いずれにせよ、各種のメディアを通じてもたらされたベトナム戦争の実像は、日本人の心をつかみ、激しくゆさぶった。当時、大学生だった女性は、次のように書く。
「一九六八年のテト攻勢を頂点とした『アメリカの戦争』としてのベトナム戦争がもっとも激しかった頃、私は大学生だった。ミライの虐殺(ソンミ事件)が報じられ、残虐に殺されるベトナムの子どもや女性、老人、そして『ベトコン』容疑者として拷問を受ける若い男女、仏教徒の焼身自殺、ナパームで焼かれながら逃げ走る少女、虎の檻で知られるコンソン島の実態……数限りないこれらの写真や報道記事に触れるたびに、アメリカ兵はどうしてあそこまで残虐になれるのかと憎しみまで抱いた」(白井洋子著「ベトナム戦争のアメリカ」、刀水書房、二〇〇六年刊)
メディアによるベトナム報道が一般市民に与えた影響の深さがうかがえる。
その結果だろう。朝日新聞社が六五年八月に実施したベトナム戦争に関する世論調査では、実に七五%の人が米軍による北ベトナム爆撃(北爆)に反対し、戦火が拡大し日本にも火の粉が降りかかってくるのではという不安を感ずる人が多かった。
このような国民意識がベースにあったからこそ、社会党、共産党、総評系団体や、市民中心の「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)などが始めたベトナム反戦運動が、かなりの盛り上がりを見せたのだとみて差し支えないだろう。もっとも、そうした反戦運動も世界的な反戦運動の一翼を担ったものの、ベトナム戦争中、一貫して米国のベトナム政策を支持し続けた日本政府の姿勢をついに変えさせることはできなかった。
ところで、ベトナム戦争中はベトナムの地を踏む機会がなかった私だが、戦争終結から十年たった一九八五年、初めてこの国を訪れた。ハノイやホーチミン市(旧サイゴン)などを訪れたが、かつて解放勢力が縦横に掘りめぐらせた地下トンネルは観光名所となっていた。
(二〇〇六年十月五日記)
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