原水協の世界大会も「ベトナム支援」一色だった――原水協の第13回原水爆禁止世界大会(1967年8月)
の「議事要録」から
一九七三年(昭和四十八年)一月二十八日に停戦が実現したベトナム戦争は、二年後、劇的な結末を迎える。七五年四月三十日、南ベトナムの解放勢力が南ベトナムの首都、サイゴンに無血入城を果たし、南ベトナム政府は無条件降伏、南ベトナム臨時革命政府が全権を掌握した。これにより、ベトナム戦争はついに終結をみた。
さらに、この年十一月には南北統一が合意され、翌七六年七月二日、ベトナム社会主義共和国の成立(首都はハノイ)が宣言される。
ベトナム戦争は南ベトナム民族解放戦線、北ベトナム側の勝利で終わったわけだが、勝因は何だったのか。
「ベトナム戦争終わる」と題した五月一日付の朝日新聞社説は「ベトナム戦争は、徹頭徹尾、民族解放の戦争であった。それが解放勢力の勝利に終わったことは、民族主義を大国が力で抑えつける時代が終わったことを示している。これが最大の意義であろう」とし、次のように論じた。
「三十年近い戦争の歴史を振り返ると、何よりも力強く浮かび上がってくるのは、ベトナム民族のたくましさと団結である。ほとんど武力ゼロから出発して、フランスをディエンビエンフーに打ち破った第一次戦争、そして世界最強をうたわれた五十万を超える米軍を相手に、戦い抜いた第二次戦争。独立を求める民族の願望を妨げるものは、結局敗退する。しかしそれには耐え抜くだけの強い意思と団結が必要である」
そして、「この民族主義を支えたものは、天の時と地の利と人の和であったと思う」として、次のように述べていた。
「まず天の時とは、第二次大戦後、アジア、アフリカにほうはいと沸き起こった民族独立運動、それにつづく第三世界の発言力強化である。一方、ソ連、中国を先頭にする社会主義世界が、大きく発展したこともブラスした。ベトナムの民族解放戦争は、絶えず国際的に支援、激励された」
「地の利でいえば、トンキン・デルタの特性がある。東南アジアのデルタの中で、トンキン・デルタは最も古く人口が定着し、しかも狭小過密なデルタである。例年のように台風に見舞われ、地域住民総出で洪水、治水対策に当たるという長い歴史がある。同じように人口過密なガンジス・デルタが、宗教対立でひき裂かれていたのに比べると、トンキン・デルタは人が自然的に、結束して生きるところである。その伝統は、かつて中国の侵攻に抵抗する無数の英雄を生んだ。民族主義はこの土壌の上に育ったものである」
ベトナム側の勝因は、ベトナム民族のたくましさと団結。それに、天の時と地の利と人の和が幸いしたというのだ。その通りであったろうと、私も当時思った。が、その一方で、こうした見方に対し「何か一つ、重大なことが忘れられているのではないか」との思いを禁ずることができなかった。つまり、世界的な規模で展開されたベトナム反戦運動とそれが果たした役割への言及がなかったからである。
ベトナム戦争での決定的な勝因は、確かにベトナム民族のたくましさと団結にあったろう。しかし、ベトナム反戦運動が果たした役割もまた、無視できないのではないか。そう思えてならなかった。
なのに、ジャーナリズムで見るかぎり、反戦運動の広がりもベトナム側の勝因、米国側の敗因の重要なファクターとして挙げていたところは少なかったように記憶している。
全国紙三紙の社説のうち、反戦運動の果たした役割に触れていたのは読売新聞だけだった。すなわち、五月一日付の同紙社説「”ベトナム後“の幕開けに望む」は、ベトナム戦争の経過を説明するなかで「五十余万の米軍をもってしても、解放勢力を屈服させることができず、しかも、冷戦の論理による米軍の介入が、実はベトナムの民族解放を妨げているのだと知ったとき、アメリカに反戦運動が燃え上がり、米軍は撤収せざるを得なくなった」と書いていた。
その通りだ、と私は当時、意を強くしたものだ。要するに、米国の足元から反戦運動が燃え上がり、加えてヨーロッパや日本でも反戦運動が高揚し、こうした地球的規模の反戦運動によって醸成された「ベトナム戦争反対」の世界世論の前に、米国政府もついにベトナムから軍隊を引き揚げざるを得なかったということだろう。
私のこうした見方は決して的はずれでなかったと、最近、改めて確認する機会があった。さる九月九日付の朝日新聞朝刊の国際面に載った、米国のピュリツァー作家、ノーマン・メイラー氏へのインタビューだ。記者の質問に答える形で9・11同時多発テロ後の米国について語ったものだが、同氏はそのなかでこう話していた。
「ベトナム戦争が世論の注目を集めるまでに何年もかかったが、イラク戦争は当初から反対があり、今や国民の多数が支持していない。ベトナム反戦では『夜の軍隊』で描いた67年の国防総省へのデモが転機となった。ごく普通の市民が5万人もワシントンに集まり、警官隊に警棒で殴られるのを恐れずに行進する。その光景をみて、老練な政治家だったジョンソン大統領は国民の支持を失ったと実感した。世論が分裂しては戦争に勝てないと理解したのだ。ただ、戦争を続けるのが無理とわかってからも、終結まで何年かかったことか」
とにかく、ベトナム戦争は終わった。私は、次のようなデータを新聞で目にしたとき、ベトナム戦争における犠牲者の多さ、それをもたらした戦争の悲惨さにいまさらながら心が痛んだ。それは、一九七五年五月二日付の朝日新聞夕刊に載った、ワシントン発のロイター電だった。
それによると、ベトナム戦争での死者(推計)は米国防総省調べで一七〇万人以上。うち戦闘での死者(推定)は、北ベトナムと南解放勢力が一〇〇万人以上、サイゴン政府軍が二四万一〇〇〇人、米軍が五万六五五五人(事故死、民間人を含む)。エドワード・ケネディ議員の上院難民小委員会によると、南ベトナム民間人の死者は四一万五〇〇〇人。米軍による「北爆」によってもたらされた北ベトナム一般市民の死傷者は一五万人(うち死者は三万人)と推定される。
ベトナム戦争終結から二十八年後の二〇〇三年三月、米国は国連決議を経ないままイラクを攻撃した。イラク戦争の開始である。イラクのフセイン政権が大量破壊兵器計画をもち、国際テロ組織アルカイダとも関係がある、というのが米国の開戦理由だった。
しかし、フセイン政権に大量破壊兵器計画はなく、アルカイダとも関係がなかったことがすでに明らかとなっている。フセイン政権が打倒された後のイラクでは、宗派間の対立がエスカレートし、治安は悪化するばかり。さる九月一日に公開された米国防総省の議会向け報告書でも「内戦につながりかねない状況が存在する」と認めざるをえない事態となっている。
米国は、ベトナム戦争の経験から何も学ぶことがなかったのだろうか。そう思えてならない。
(二〇〇六年九月二十五日記)
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