もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第92回 ベトナム停戦をどう受け止めたか


ベトナム和平協定調印を受けた1973年1月27日付の朝日新聞夕刊第二社会面




 ベトナム戦争に関する和平協定が一九七三年(昭和四十八年)一月二十七日、パリで、米、北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム臨時革命政府の各外相によって調印され、翌二十八日、停戦が発効した。これによって、インドシナ半島で約四半世紀もの長期にわたって続いてきた戦争は終息し、戦火が消えたのだった。 

 こうした画期的な節目にあたって、新聞、テレビなどのマスメディアは競って特集を組んだが、私が所属する朝日新聞東京本社社会部も、社会面で停戦関連の記事を特集した。
 まず、二十七日付夕刊の第二社会面で、『ベトナムの心持続けた二人 和平調印の日に感無量』のタイトルで二人の人物を取り上げた。一人は「ゼッケンデモの金子徳好さん」で、筆者は同僚のH記者だった。
 
 金子さんは当時四十八歳で、日本機関誌協会副理事長(現在はミニコミ評論家)。東京・三鷹市の自宅から電車で港区の協会事務所に通勤していたが、その行き帰りの通勤中、胸に「アメリカはベトナムから手をひけ」と書いたゼッケンをつけ通した。
 実行への跳躍台となったのは、酒席だった。一九六五年二月、米軍機による北ベトナム爆撃(北爆)が始まった。老人や子どもが、爆撃で死んでゆくのはたまらなかった。いたたまれない気持ちにさいなまれた。「日本人の自分にもできることはないか」と考えた末、「ベトナム反戦を訴えるゼッケンをつけて通勤するのはどうか」と思いついた。飲み屋で職場の仲間に相談してみたら、「そりゃあいい。やれよ」とおだてられ、酒の勢いもあって、「やるぞ」と約束してしまった。妻の静枝さんに話したら、ミシンを踏んでゼッケンをつくってくれた。
 この年の四月五日、ゼッケンをつけて初出勤。電車内ではじろじろ見られ、恥ずかしかった。神経疲れから不眠症になり、一時ゼッケンを外したこともあった。
 六七年十一月十一日には、「北爆を支持する佐藤首相に死をもって抗議する」と、エスペランティストの由比忠之進さんが、首相官邸前で、ガソリンを胸にかけ自らマッチで火をつけて焼身自殺した。由比さんの思い詰めた気持ちに打たれた。それ以来、平和への祈りをこめて、「ベトナムの子供たちに」と書いた募金箱を首から提げて持ち歩くようになった。
 七一年十月、戦時下の北ベトナムに招かれた。ベトナムへ支援物資を送る「ベトナム人民支援委員会」の役員をしていたからだ。ハノイの革命博物館へ行ったら、自分がつけていたゼッケンが飾られていて、感激した。
 ゼッケン通勤を始めてから停戦まで、ざっと八年。この間、ゼッケンはなんどもすり切れ、そのたびに新しいものに取り替えた。最新のものは三十五枚目。ベトナムの子どもたちへのカンパは百万円を超した。
 「あれだけ残虐な人殺しがなくなるのは喜ぶべきことだが、終わったという実感がなかなかわかない。ゼッケンは、家族ぐるみの支援で、習性というか、生活の一部になっていた。外したら、なんだかスースーしてカゼをひきそうな気がする」。記事の中で、金子さんはそう語っていた。
 
 紙面で取り上げたもう一人は、焼身自殺した由比忠之進さんの妻、静さん(当時、七十三歳)だった。こちらの取材は私が担当した。
 静さんは、横浜市内を東西に走る相模鉄道の希望ヶ丘駅に近い住宅街の一角に住んでいた。静さんは、由比さんの遺影を背にして、控えめな口調で語った。
 あの日――六七年十一月十一日の朝九時ごろ、忠之進さんはいつもの背広姿で、いつものカバンを下げて家を出た。出がけに「ちょっと横浜まで行ってくる」とひと言。これが夫の“最後の姿”になろうとは静さんは夢にも思わなかったという。
 警察からの電話で、夫の“死の抗議”を知ったのはその日の午後六時過ぎ。東京・港区の虎の門病院にかけつけると、夫はもう黒こげの変わり果てた姿だった。
 「なんてバカなことを」と思った。しかし、その後、心の中で亡夫と対話を続ける中で、次第に夫の行為の意味を理解し、納得するようになる。
 「あなたは、若いころから、弱い者、恵まれない者に味方するという気性でしたね。それに、いつも理想に燃えていて、いったんこう思うと、人がついてこなくてもすぐ実行に移すタチでしたね」
 「ベトナム問題でも、あなたはナパーム弾で傷ついた子どもの写真を見ては、むごい、むごいと憤慨していましたね。日本政府の態度にも腹を立てて。そこで、思い詰めてあんなことを……」
 その後、忠之進さんの命日には、毎年、各地で「由比さんを偲ぶ会」が開かれるようになった。静さんは、請われれば気軽に出かけてゆく。「わたくしのようなものでも、平和のために少しでもお役に立てばと思って」
 夫が死をかけて追求し続けたベトナム和平。それが、やっと訪れた。静さんは低い声でつぶやくように言った。「主人もきっと喜んでくれるはずです。主人の死は、やっぱりむだではなかったと思います。人間ひとりの死がどれほどベトナム和平に影響を与えたかは疑問ですが、でも、わたしは、決してむだではなかったと思いたい。犬死にだった、というのではあまりにもあの人がかわいそうですから」
 
 「ベトナム反戦」にかかわった日本人は、それこそ数えきれないくらいのおびただしい数にのぼる。ようやく実現した停戦は、その一人ひとりに深い感慨をもたらしたにちがいない。それらを紹介したかったが、いかんせん、とてもそんな紙面はなかった。なんとも残念だった。

 ともあれ、「和平協定調印へ」と報じられた時の私の最大の関心事は、わが国でベトナム反戦運動に投じられた巨大なエネルギーが、これから先どうなるだろうか、ということだった。だから、デスクと相談のうえ、社会部として、一月二十五日から二十七日まで、朝刊の第二社会面で三回にわたり『日本のなかのベトナム 反戦運動のゆくえ』と題する続き物を連載した。私自身が取材したデータに大阪本社からもらったデータを加え、私がまとめた。
 
 第一回のタイトルは「シンボル」。記事のねらいは日本におけるベトナム反戦運動のまとめで、日本の運動は、一九六五年二月の、米軍機による北ベトナム爆撃(北爆)を機に芽生えたこと、その中で、一九六〇年の反安保闘争のあと長らく低迷を続けていた社会党、共産党、総評などの反戦運動が「北爆」をきっかけに急速に息を吹き返したこと、さらに「北爆」直後に市民が中心の「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)が生まれて市民の中に反戦の輪を広げたこと、反代々木系の学生各派もにわかに活気づいて過激な行動に出るようになったことを紹介した。
 その後、「羽田」「佐世保」「王子」「成田」「大学」「反安保」「沖縄」などの名称を冠した闘争が次々と展開され、社会に衝撃を与える。巨大なうねりとなった街頭デモの激しさは六〇年の反安保闘争をしのいだ。これら一連の闘争のベースに「ベトナム反戦」があった。記事では、それを関係者の証言で裏づけた。
 とりわけ、いまでも印象鮮やかなのは、沖縄県祖国復帰協議会会長として日本復帰運動の先頭に立った喜屋武真栄氏(当時、参院議員。故人)のコメントだった。
 「われわれは復帰運動のなかで安保破棄、基地撤去を叫んだ。住民の生命と財産が基地によっておびやかされていたからだ。加えて、沖縄がベトナム戦のための基地を提供している現実から、ベトナム人民に対し加害者の立場に立ちたくないという意識があった」
 まさに、「べトナム」は八年間にわたって、日本の大衆運動のシンボルでありつづけたのだ。
 第二回のタイトルは「多様化」。大衆運動のシンボルだった「ベトナム」に一応のピリオドが打たれたあと、大衆運動はどうなってゆくのか。運動関係者の見通しでは、身近にある問題の解決に向かうだろう、ということだった。つまり、多様化の道をたどるだろう、という見方が強かった。記事の中で、京都べ平連世話人の飯沼二郎氏(当時、京大助教授。故人)は次のように語っていた。
「ベトナムの人たちがかわいそう、とはじめたが、運動が深まってみると、この戦争に加担している日本の足元が見えてきた。沖縄にB52北爆基地がある。戦争で潤う軍需産業がある。さらに安保体制、日米の関係、日本社会のひずみ……次から次に疑問がわきだした。いまは、手分けして個別テーマに取り組んでいるんです」
 飯沼氏によると、三年前から具体的な問題を追って分化しはじめた京都べ平連は、いま、約三十のグループに分かれて日常活動を進めているとのことだった。例えば、北地区反戦市民の会とか、死の商人を告発する会とか、自衛隊に反対し朝鮮人差別問題を研究するグループとか……
 第三回のタイトルは「持続と深化」。これもベトナム反戦運動を続けてきた市民団体のリーダーや労働組合幹部に「これからの展望」を聞いたものだったが、「ベトナム」に注がれた運動のエネルギーは持続するだろう、との見立てだった。そして、そのエネルギーの向かう先は「反基地」「反自衛隊」ではないか、というのが労組幹部の見通しだった。「ベトナム反戦」から「反基地・反自衛隊」へ。労組幹部はそれを「ベトナム反戦運動の深まり」と表現した。

 :月刊誌『世界』編集部に請われ、同誌四月号の特集「ベトナム戦争は終ったか」に「反戦運動を見つめて」を書いた。

 それから三十三年余の歳月が流れた。その間も反戦運動は続けられてきたが、果たして、運動に「多様化」と「持続と深まり」はあっただろうか。その後もずっと日本の反戦運動を見続けてきた私の目には、三十三年前の“予測”があたったのは「多様化」だけのような気がする。この面ではまったく予測どおりで、運動の目標も運動の実態も、それこそ無限と言ってよいほど細分化、分散化の歴史をたどった。
 その一方で、この間、反戦運動にとって大きなヤマ場ともいえる時期があったにもかかわらず、運動としてはベトナム戦争時のような盛り上がりをみせなかったというのが実態だ。一九九一年一月に湾岸戦争、二〇〇三年三月にはイラク戦争が勃発し、いずれの場合も西ヨーロッパや米国では反戦運動が高揚したが、日本では盛り上がりを欠いた。なぜだろうか? 私にとって関心のある課題だが、いまだに確たる理由を見いだせないでいる。

(二〇〇六年九月十七日記)






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