ベトナム和平合意を伝える1973年1月24日付の朝日新聞夕刊
一九七三年(昭和四十八年)一月二十四日の新聞各紙夕刊に大きな見出しが躍った。「ベトナム和平成る」。
記事によると、二十三日、パリで開かれた、米国のキッシンジャー大統領補佐官と北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問との秘密会談で、ベトナム戦争に関する和平協定の仮調印が行われ、二十七日にパリで、米、北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム臨時革命政府の各外相によって正式調印が行われることになったという。それにともなう停戦は、二十八日グリニッジ標準時間午前零時に南ベトナムで発効する。協定の内容は「六十日以内に米軍捕虜の釈放と米軍の完全撤兵を行う」などといったものになる、と伝えていた。
思えば長い長いベトナム戦争だった。まさに、いつ果てるともしれない戦争であった。
インドシナ半島では、一九四五年に日本軍が降伏すると、ホー・チ・ミンを中心としたベトナム独立同盟(ベトミン)が結成され、同年、ベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立を宣言したが、植民地支配の復活をめざすフランスが南ベトナムに親フランス的な政府をつくったので、北ベトナムとフランスの間で戦争が始まった。これが、インドシナ戦争である。
最初はフランス軍が優勢だったが、ベトミン側が盛り返し、一九五二年には全土の五分の四を支配下におくようになり、五四年には、ディエンビエンフーを攻撃し、フランス軍は降伏した。
この年、和平のためのジュネーブ会議が開かれ、七月にはベトナム、ラオス、カンボジアの全域について休戦協定が調印され、ベトナムは北緯十七度線に軍事境界線を設けて北と南に分かれ、五六年七月までに南北統一の選挙が行われることになった。
しかし、協定の調印に参加しなかった米国と南ベトナムは五五年、ゴ・ジン・ジエムを元首とする反共親米国家のベトナム共和国をつくった。これに対し、六〇年には「反ゴ・反米」を掲げる南ベトナム民族解放戦線が生まれ、ゲリラ闘争を始めた。これがベトナム戦争である。
その後、解放戦線の勢力はますます拡大し、六四年には米国による本格的な介入が始まる。これに対し、北ベトナムは解放戦線を支援し、その背後で、ソ連と中国が、北ベトナムと解放戦線を援助した。米国は六五年二月、北ベトナムへの爆撃(北爆)に踏みきり、戦争は一気にエスカレートする。六七年暮れには、南ベトナム駐留米軍が四七万八〇〇〇人に達し、南ベトナム政府正規軍をはるかに上回るに至った。南ベトナムにおける米軍と解放戦線との地上戦闘は激しさを増した。
六八年になると、北爆も地上戦もさらに拡大し、二月には解放戦線による「テト攻勢」があり、サイゴンなども攻撃されるに至った。このため、ジョンソン米大統領が和平交渉を呼びかけ、北ベトナムもこれに応じ、同年五月からパリで会談が始まった。いくたの曲折をへて、ついに和平のための合意が成立したのだった。
こうした合意を日本の国民はどう受け取ったのか。
一月二十五日付の朝日新聞社説は「長く、すさまじい戦いに、ようやく終止符が打たれようとしていることに、われわれは喜びを隠すことができない。史上に例を見ない殺傷と破壊の戦いが幕を閉じるのは大きな救いである」と書いた。
同日付の毎日新聞社説は「ベトナム戦争がどのように悲惨で不幸な戦争であったかについては、いまさらくどくどしい説明はいるまい。……南北ベトナム合わせて三千八百万の人たちは、第二次大戦後二十八年、戦火の絶えぬ日々を迎えては送り、戦争の傷は身内に戦争被害者をもたぬ家族はほとんどないというまでになっていた。停戦協定成立の知らせを聞くベトナムの人たちの安ど感は想像に余りがある。その知らせはまた、ベトナム人にとって民族独立への新時代を告げるあかつきの鐘でもある。喜びをともにわかちたい」と述べた。
やはり同日付の読売新聞社説は「思えば長い戦争であった。一九四五年九月のベトナム独立宣言の直後、フランスとの間に始まった第一次インドシナ戦争から数えれば、すでに四半世紀を越える。……この間、絶え間のない戦禍に苦しみ通してきたのは、いうまでもなく、南北ベトナムの民衆である。今度の和平の合意については、その内容が明らかにされるとともに、さまざまな批判も生ずるかも知れない。しかし、なんと言っても、この合意によって、とにもかくにも、ベトナムの民衆がその苦難から解放され、ニクソン大統領のいうように、南ベトナムの人々が自らの将来を外部の干渉なしに決める権利を保証されたことの意義は大きい。われわれも心から喜びたい」と論じた。
日本の世論は、ベトナム和平合意を大いに歓迎したとみていいだろう。
私もまた、一人の人間として、戦争の一日も早い終結を望み、そして仕事の上でも日本におけるベトナム反戦運動を七年間にわたってひたすらフォローし続けてきただけに、停戦合意は心底から喜べる朗報であった。が、不思議と躍り上がるような興奮はなく、むしろ、全身から力が抜けてゆくかのような虚脱感を覚えた。
人間、絶望感が深ければ深いほど、渇望していたことがようやく実現すると、充足感よりも、空洞に投げ込まれたような一種の空虚感に襲われるもののようだ。それほど、長い長い、いつ果てるとも知れないベトナム戦争は、私を長期にわたっていたたまれない、やりきれない絶望的な気持ちに陥れ続けてきたのだった。
それにしても、ベトナム戦争とはいったいいかなる戦争だったのだろう。この点についても、新聞社の社説から考察してみよう。一月二十五日付の朝日新聞社説は、次のように書いた。
「この戦争は南ベトナムの場でとらえれば、南ベトナムの政治体制を変えるか(解放戦線の主張)、その現状維持をはかるか(サイゴン政権の主張)の争いであり、全ベトナムの場で見れば、ベトナムの統一をはかるか(ハノイの立場)、ベトナムを二つの国とするか(サイゴンの立場)の闘争だった。
アメリカが介入してから、これは『アメリカの戦争』となったが、『アメリカの戦争』なるものの本質は植民地主義戦争だったと思う。領土、資源、市場の獲得を目標としていなかったとする意味では、十七、八世紀の植民地主義とは同じでないが、植民地主義を、自己の支配圏、勢力圏拡大の意味にとれば植民地主義だったし、軍事条約、軍事、経済援助を媒体としての間接支配をもくろむものを新植民地主義と定義するならば、これは新植民地主義といえた。
そうした前時代的な政策は富と力に裏打ちされてインドシナに展開されたが、結局、民族自決を否定しようとして介入し、それを認めることによって自らの退場を規定したようである。
ベトナム戦争から、どのような教訓を引出すかは、人によって違うだろうが、われわれは、ともかく富と力に限界があること、民族自決の尊厳が認められたことに大きな意義を見出す」
また、同日付の読売新聞社説は、こう書いた。
「ベトナム戦争は、その過程において、国際情勢に大きな影響を与えるとともに、さまざまな教訓を残した。それをどう受け止めるかは、立場によって異なるであろう。だが、だれしも否定できない最大の教訓は、ベトナムのことはベトナムに任せよ、外部勢力は他国の内部の事柄に干渉するなということであろう」
さらに、同日付の毎日新聞社説は「ニクソン大統領は……南ベトナムは“民族自決”に任せると公言した。民族自決は停戦協定を貫く基本原則の一つだとみられるが、それは、こんご南ベトナムに恒久平和を築く基盤となるべきものだ。米国の民族自決への合意はこんご南ベトナムの二勢力の間に紛争が起こっても、米軍は再び介入しないという意思表示であろう。南ベトナムの政治形態はこんごの総選挙、新政権の成立でどうきまるかはわからないが、選挙の結果、どういう政体ができようとも、こんごは外国勢力が介入すべきものではなかろう」と主張した。
要するに、ベトナム戦争が人類に与えた教訓は、民族の願いを無視した大国の介入は誤りであり、民族の心は強大な武力によっても支配されることはないという真理の確認であったということだろう。
こうしたベトナム戦争に対し、我が日本政府はいかなる態度をとったのか。民族の願いを無視した大国、つまり米国のベトナム政策を終始支持し続けたのだった。
(二〇〇六年九月八日記)
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