もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第90回 横井庄一さん救出取材の教訓


横井庄一さん救出劇の朝日新聞取材本部(右から黒川、青木、戸田、岩垂の各記者。グアム
第一ホテルの一室。1972年1月)




 グアム島のジャングルで発見された元日本兵、横井庄一さんは、救出から十日目の一九七二年(昭和四十七年)二月二日、グアムを日航特別機で出発し、同日、羽田に到着したが、横井庄一さん救出を取材するため同島にやってきた日本の報道各社の記者、カメラマンの大半も日航特別機に同乗して帰国した。
 私はこれには乗らず、二日後の二月四日夕グアム発羽田行きのパン・アメリカン航空機で帰国した。日航特別機に乗らなかったのは、取材作業の後始末があったからだ。ホテルへの支払いとか、取材上お世話になった人へのあいさつとか。

 羽田に向かう機中で、私は気が重かった。休む暇もない取材活動で肉体的疲労が限界に達していたからではない。報道各社による報道合戦で、とくに初期のそれで「朝日」の紙面が見劣りしたからだった。その責任はひとえに最初にグアム島入りした私にあるのだ、との思いが募ってきて、気が滅入るばかりだった。

 グアム島に乗り込んだ報道各社がまず狙ったのは、なんといっても横井さんへのインタビューだったが、これは報道各社がグアムに到着した日(一月二十五日)の夜に共同記者会見という形で実現した。その後も、横井さんを保護したグアム警察本部とグアム・メモリアル病院のガードは堅く、横井さんへの単独インタビューは許されなかった。横井さんは、日本に帰国するまで、結局、六回にわたって報道陣の前に現れたが、いずれも共同記者会見だった。
 もちろん、それ以外の取材は自由だったから、報道陣による熾烈な取材合戦が繰り広げられた。それは、まさに乱戦だった。
 取材合戦の対象は、タロホホ村の山中で横井さんを発見した現地住民、住民からの通報でタロホホ村に出向き横井さんを救出した警察官、救出された横井さんを保護したメモリアル病院の関係者、日本政府との交渉にあたったグアム政庁の関係者、それにグアム駐在のジェームス・シンタク日本名誉領事らだった。(横井さんが住んでいた穴も当然、報道陣のターゲットとなったが、米軍から「現場に行く途中や穴の周囲に旧日本軍が埋めた地雷や不発弾が残っていて、非常に危険。近寄らないように」との警告が出され、報道陣による共同取材が許されたのは、横井さん発見から四日目の二月二十七日だった)。
 グアムは米国領。だから、これらの取材には当然、英語、それも会話力が必要だった。が、残念ながら、私は英会話がからきしだめ。英会話のできる同僚記者がいっしょだったら彼に任せることも可能だが、たったひとりではいかんともしがたい。通訳を雇えばことは簡単だが、グアムは小さな島で、人口十一万のうち半数は米軍とその家族。通訳を探すのは難しかった。
 私は、英語のできる日本人ホテル関係者の協力を得て、なんとかしのいだが、初期の取材合戦で後れをとったのは明らかだった。新聞記者になって十四年にもなるのに、この間、英語を自由に駆使して取材する力を身につけないできてしまったことを悔やんだ。国際化が進めば、当然、日本人がからむ事件や事故が海外で多発する。ならば、新聞記者もそれに即座に対応できる能力を身につけなくてはならない。こうしたわかりきったことを怠ってきたことのツケの大きさを、今さらながら思い知らされた。
 
 反省点はほかにもあった。テレックスを操作できなかったことである。
 取材の結果は原稿にし、それを東京本社社会部に電話で吹き込んだのだが、この送稿作業には泣いた。なぜか。電話事情か極端に悪かったからである。当時、グアムと東京を結ぶ国際電話の回線は三回線しかない、とのことだった。なのに、同一の時間帯に報道各社が一斉に東京への接続を申し込む。当時はファクスなどといった便利なものはなく、電話に頼るしかなかった。だから、原稿の締め切り時間には電話線は極端な満杯状態となり、なかなかつながらない。
 私と黒川写真部員は、グアム第一ホテルの私の部屋を取材本部にし、そこを拠点に仕事をした。したがって、送稿にあたっては部屋の電話機を使った。が、通話を申し込んでも、待てども待てども、東京が出ない。原稿の締め切り時間が迫ってくる。それでも社会部が出ない。まさに途方に暮れた。胃がきりきり痛んだ。
 ようやく社会部が出ると、新たな難題に悩まされた。相手の声がひどく小さいのだ。こちらの声も、かすかに聞こえるとのことだった。どうしてそうなのか私にはわかからなかったが、ホテル関係者によると、グアムから東京へは直接の電話ケーブルがなく、グアムから東京への通話は、いったん海底ケーブルを経由してアメリカ本土まで行き、そこからさらに海底ケーブルを経て東京に至る、とのことだった。そのために、通話の音量が下がるのでは、との話だった。
 ともあれ、原稿を送話器で吹き込む時は、大声をあげなくてはならなかった。このため、のどが痛くなった。そればかりでない。どなり続けると、汗だくになり、全身から力が抜けた。
 原稿を書き取る社会部員には、東京本社最上階の電話交換室まできてもらった。交換台から内線で社会部をつなぐよりも、グアムからの音声を交換台で直接聞き取る方がいくらかよく聞こえるからだった。 
 電話に代わる唯一の通信手段は、ホテル一階に設置されていたテレックスだった。が、私はそれを操作できなかった。もし操作できたら、もっとたくさんの原稿をより速く送ることができたのに、と悔やまれた。

 初期の取材活動にあたっての心残りはまだあった。それは、私の口からは言いにくいことだが、東京社会部からの“援軍”がなかなか来なかったことである。グアム島での取材を始めたものの一人ではなかなか手か回らなかった。取材しなくてはならないことは、それこそ山ほどあった。なのに、一人ではなんともしがたい。それに、社会部からの連絡があるため、長時間取材本部を空けられない。このため、取材に行きたいところがあっても、思うように行かなかった。

 他社は、すばやく第二陣、第三陣の取材団を送り込んできた。が、「朝日」の場合、森本哲郎・編集委員、出版局の戸田鴻・記者と石川文洋・写真部員(その後、フリーのカメラマン)がグアムに到着したのは、私と黒川写真部員がグアム入りした一月二十五日の翌日の二十六日だった。東京社会部の青木公・記者と名古屋本社社会部の江森陽弘・記者(その後、テレビ朝日系列モーニングショーのメーンキャスター)が到着したのは五日目の二十九日だった。これで、「朝日」の取材態勢は一気に整った。取材活動も活発化し、紙面も精彩を放つようになった。

 青木記者は、帰国後、社内報にグアム島での取材について書いた。それは「痛い初動作戦の遅れ」「横井軍曹 グアム島の取材争い」との二本見出しがついていた。そこには、こうあった。
 「取材合戦六日目の二十九日早朝、『すぐ出発するよう』に指示をうける。旅行ずきなので数次旅券と査証をもっているからであった。
 今度の取材作戦のミスは、先手をとる電撃作戦をとらなかったことにある。生還そのもののニュースの出足は早かったし、かつての生還兵士、伊藤、皆川両氏をつかまえ取材したのも、わが社がもっとも早かった。が、あとがいけない。二十五日、岩垂記者と黒川カメラマンを出しただけで、羽田担当の有吉記者が『各社は応援を続々だしている。グアム便の席をおさえようか』と気をまわしたのに、援軍はついに出なかった。
 このころ、岩垂記者は苦闘していた。ジャングルではなく、電話とである。東京―グアムは三回線しかない。本社交換台が、いくら努力しても、ラインの保持は無理である。いつでるかわからない電話を二十四時間待機しながら、取材もしなくてはならない。電話のある宿舎兼プレスセンターと、病院、警察、現場(ほらあな)は、それぞれ数キロはなれている。『もう一人いれば……』という岩垂、黒川記者の願いは、『もう一兵、もう一機ほしい……』と空をみあげて、援軍を待ったにちがいない横井軍曹のそれと同じであった」
 私は、なにか救われたような気持ちになった。が、気が晴れることはなかった。

 帰国して数日後、私は、御茶ノ水の日大駿河台病院で、のどの手術を受けた。グアム島で電話の送話器に向かってあまりにも大声を出し続けた結果、ついにのどの気管の内側の一部が炎症を起こして腫れ、それが破裂して、声が出なくなってしまったためだ。

 「初動作戦で遅れた」という反省は、その後まもなく、社会部の取材で生かされることになる。この年(一九七二年)十月、フィリピンのルバング島で地元警察隊が元日本兵二人を発見し、銃撃戦になった。小塚金七元一等兵が死亡し、小野田寛郎元少尉が負傷して姿を消す。その後、一九七四年三月に小野田元少尉が三十年ぶりに救出され、帰国する。社会部は、事件が発生すると直ちに多くの記者を現地に派遣し、記者たちの書いた記事が紙面を飾った。
 社会部員のほとんどが数次旅券をもつようになったのも、このころからだったような気がする。

(二〇〇六年八月三十一日記)






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