朝日新聞社から緊急出版された横井庄一さんの記録『グアムに生きた二十八年』
(1972年2月25日発行)
自宅で就寝中、電話のベルで起こされた。一九七二年(昭和四十七年)一月二十五日午前二時すぎ。前夜、新宿で同僚と飲み、遅くに帰宅して寝入ったばかりだった。
社会部からの電話だった。受話器をとると、社会部デスクのかん高い声が響いてきた。「岩垂君、急いでグアムに飛んでくれ」。一瞬、何のことか分からなかった。
デスクによれば、西太平洋マリアナ諸島グアム島で、元日本兵らしい男が発見されたという。その取材に行ってくれ、というのだ。
「何でよりによって私に」との疑問が頭をよぎったが、その疑問はすぐにとけた。私が米国のビザ(入国査証)をもっていたからである。
グアム島は米領である。そこへ入るには米国のビザが必要だ。そこで、社会部は急きょ部員で米国ビザはを持っている者を探した結果、私に白羽の矢が立ったというわけだった。当時、社会部員で米国のビザを所持していたのは極めて少数であった。たまたま私は、前年の一九七一年暮れに原水爆禁止日本国民会議(原水禁)のビキニ被災調査団に同行してグアム島経由でミクロネシアへ行ってきたばかり。その時取得した米国のビザが、まだ有効だったのだ。
寝入りばなを起こされたので、ひどく眠かった。しかし、業務命令である。私はあたふたと身支度し、出社した。そして、午前十時四十五分羽田発のパン・アメリカン航空八〇三便に乗り込んだ。この日のグアム向け航空便の第一便であった。
これに乗り込んだのは毎日、読売、東京、中日の各新聞社の記者、カメラマンと、「朝日」から私と黒川弥吉郎写真部員。いわば、日本人記者団の第一陣であった。中日の記者は新妻を連れてのグアム行き。新婚旅行でグアムに行こうと八〇三便を予約していたところ、本社から「元日本兵を取材せよ」と緊急連絡があり、新婚旅行兼取材旅行になったという。
機中で、私は羽田出発前に社会部で聞かされた情報を思い出していた。
「グアム島で元日本兵らしい男を発見」という第一報が社会部に飛び込んできたのはこの日午前零時五十分である。グアム島にある東急航空の関係者が日本の上司に伝え、その人が朝日新聞に電話してきた。
その人によると、前日の二十四日、グアム島の南部を流れるタロホホ川のほとりで、五十八歳ぐらいの元日本兵らしい男が現地の住民に発見された。男は、名古屋市生まれの「ヨコイ・ショーイチ」と名乗っている。現地の警察は男をアガナ市のメモリアル病院に運んだが、男はヒゲボウボウで足取りもおぼつかないようだったという。
私は「ほんとうだろうか」と首をかしげた。太平洋戦争中、グアム島で日米両軍の戦闘があり、日本軍が玉砕したことは知っていた。が、それからすでに二十八年もの歳月が流れている。この間、生き残りの日本兵が島のジャングルの中で一人で暮らしてきたなんてとても信じられなかった。ともあれ、私の胸の中では「どんな事実が待っているのだろか」という好奇心と、「これまで経験したことのない取材だ。果たしてスムーズに取材できるだろうか」といった不安が交錯した。
飛行機は午後三時(現地時間)にグアム国際空港についた。空港にはシンタク日本名誉領事、パン・アメリカン航空グアム国際空港旅客部長の松本和さんが出迎えてくれた。記者団はシンタク名誉領事にすぐヨコイ・ショーイチさんにインタビューしたいと申し入れた。が、ヨコイさんは現場検証のためグアム警察本部、メモリアル病院の関係者とともにタロホホ村の山中に向かったという。インタビューするためには、一行が戻ってくるのを待たねばならない。
記者団はやむなくグアム第一ホテルに向かい、そこでヨコイさんを待つことになった。シンタク名誉領事と交渉の結果、ヨコイさんと記者団の会見は午後七時から同ホテルで行うことが決まった。それまで、時間がある。なんとももどかしい。
グアム第一ホテルは島の中部、西側海岸のタモン・ビーチの浜辺にあった。クリーム色の八階建てホテル。周りにはヤシが林立し、プールもある。日本人観光客がよく利用するらしい。
午後七時過ぎ、ホテルの玄関前に人が群がり始めた。ヨコイさんの記者会見が行われるという情報が流れのか、日本人観光客や、日本人のグアム島駐在員らが集まってきたのだ。現地住民の姿もみえる。その数、ざっと百人。車が着くたびに、ざわめきが起こった。
午後十時過ぎ。数台の車が到着。その一台から、抱きかかえられるようにして、中年の男が降りてきた。
私には、それがヨコイさんだとはとっさに判断できなかった。髪が伸び、ヒゲボウボウの男を想像していたからだ。なのに、目の前の男は、きれいに調髪し、ヒゲもそっている。記者団から声が上がった。「なんだ、もう散髪しちゃったのか」
男は、魚の模様の入ったブルーのアロハシャツに紺のズボンというスタイル。やや前かがみになって歩く。ホテルの玄関を埋めていた人波から「バンザイ」がわき起こった。カメラのフラッシュが光る。男と同行の人たちは人波をかき分けながらホテルのロビーを通り過ぎ、ホテル一階の小ホールへ向かった。
小ホールには、記者会見場がセットされ、三、四十人の記者たちが男の到着をいまや遅しと待ちかまえていた。
ヨコイさんは会見場のテーブルの真ん中に腰を下ろした。右側にカマチョ知事。左側にシンタク名誉領事。白いテーブルクロスが敷かれたテーブルの上には、グアム警察の警官の手で、ヨコイさんの生活用具らしきものが陳列された。記者会見に先立って行われた現場検証でヨコイさんが暮らしていた穴ぐらから警官が持ち帰ってきた品々である。
テーブルの向こう側にすわったヨコイさんにカメラのフラッシュが光る。カメラマンが叫んだ。「ヨコイさん、笑ってください」。しかし、ヨコイさんは顔をしかめたまま。
テレビのライトとホールの蛍光灯に照らし出されたヨコイさんの顔は、妙に青白く見えた。蛍光灯のためか、それとも長い穴ぐら生活で太陽に当たることが少なかったためだろうか。まず、深い顔のしわが印象的。それに、眼光の鋭さ。まるで人を射すくめるような眼差しだ。これは、人目を避けた長い逃亡生活のためだろうか。それとも、大勢の記者団の前に連れてこられて、戸惑いを募らせているからだろうか。そんな思いが私の脳裏を駆けめぐった。
アロハシャツのそでから出ている両腕もやせている。アロハシャツのえりもとからのぞいている首から胸のあたりもひどくやせている。その上、肌はカサカサに乾いた感じで脂っ気がない。なんとも痛々しい感じで、これも長い穴ぐら生活のためだろうか、と思った。
生活用具とされる品々も、なんとも異様な品々だった。飯ごう、水筒、やかん、木の部分がすっかり朽ち果てた小銃、小銃弾の薬きょう……。どれもこれも旧日本軍兵士の携行品だ。それが、テレビライトや蛍光灯の光を浴びて黒光りする。
私には、軍隊の経験はない。それだけに、旧日本軍の必需品を目の前にすると、一瞬、歴史が逆転して、一昔前に連れて行かれたような名状しがたい気持ちに襲われた。
さらに、私の目を奪ったのは、身につけているものだ。麻袋でつくったような茶色の服。が、麻袋よりは太い繊維で織ったように見える。いったい何の繊維だろうか。それをどのようにして織ったものだろうか。それに、ちゃんとボタンもついているではないか。
そればかりでない。ラグビーのボールのような形に巻いたロープがあった。実に見事な縄だ。何を材料に、どのようにしてなったものだろうか。これは何に使われていたのだろうか。驚きとも、疑問ともつかぬ思いが私の頭の中に広がっていった。
カメラマンによる撮影がひとわたりすむと、インタビューが始まった。
まず、カマチョ知事のあいさつ。「日本の記者のみなさんが、わさわざ日本からおいでくださったことに対し、知事として歓迎の意を表します。こんどの出来事について、わが政府としてもできるだけ深く、そして落ち度がないように調査中です。これがすみ次第、できるだけ早く日本に帰っていただくつもりです」
この後、シンタク名誉領事の「では、みなさん、日本語でやってください」という発言で、ヨコイさんと記者団の一問一答が始まった。
(二〇〇六年八月四日記)
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