もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第86回 退去させられたビキニ被災調査団


マジュロ島の大通りをゆく島の女性たち(1971年12月、マーシャル諸島で。筆者撮す)




 東京駅からJR京葉線に乗る。数分で四つ目の駅、新木場につく。このあたりは「夢の島」と呼ばれ、かつてはゴミ捨て場だったが、その後、東京都による整備が進み、いまでは緑豊かな公園だ。
 駅舎を出ると、北に向かって自動車道路が伸びる。明治通りである。その歩道を数分歩くと、右手の木立の中に、本を半開きにして立てたような、焦げ茶色の建物が見えてくる。今から五十二年前に起きた世界的大事件である「ビキニ被災事件」の証人、第五福竜丸を納める都立第五福竜丸展示館だ。
 中に入ると、見上げるような古ぼけた木造船が覆い被さるように迫ってくる。全長二十八・五六メートル、幅五・九メートル、百四十総トン。船腹に「第五福龍丸」の文字。

 第五福竜丸は静岡県焼津港所属のマグロ漁船だった。一九五四年(昭和二十九年)一月、二十三人の乗組員を乗せて出航、三月一日未明、太平洋のミクロネシア・マーシャル諸島北西の海上で調査操業中、米国の水爆実験に遭遇した。この時に使われた水爆は「ブラボー爆弾」と呼ばれ、高性能の火薬に換算して約十五メガトンと推定され、広島に投下された原爆の千倍以上の威力をもっていた。ブラボー爆弾は実験場となったビキニ環礁のサンゴ礁を吹き飛ばし、サンゴ礁は放射能を帯びた白い粉「死の灰」となって周辺の海域や島々に降り注いだ。
 ビキニ環礁から北東へ百六十キロ、米国政府指定の危険区域の外にいた福竜丸にも「死の灰」が降り注ぎ、乗組員全員が被曝し、無線長の久保山愛吉さん(当時五〇歳)が急性放射能症により同年九月二十三日に亡くなった。水爆による人類初の犠牲者だった。そればかりでない。福竜丸をはじめ太平洋上で操業していた漁船が持ち帰ったマグロが放射能に汚染されていたため、魚類への不安が国民の間に広がり、全国的な規模でパニックが起こった。この事件をきっかけに日本で広範な原水爆禁止運動が起こり、それが世界に広がっていったということからみても、世界史上でも特筆される出来事といってよい。

 被災者は福竜丸の乗組員だけではなかった。実は、実験場から東に点在するマーシャル諸島の島々にも「死の灰」が降り注ぎ、そこで暮らす住民もまた被曝した。すなわち、実験場から東方約百八十キロのロンゲラップ島、同約四百六十キロのウトリック島の住民合わせて二百三十九人(胎内被曝三人を含む)が被曝していたのである。
 こうした島民たちの被曝の実態はほとんど世界に知られることなく、時間が流れた。それゆえ、この事実に関心をもつ人々もまたほとんどなかった。

 事件から十七年後の一九七一年夏、原水爆禁止日本国民会議(原水禁、社会党・総評系)
主催の世界大会に参加したアタジ・バロス・ミクロネシア議会下院議員が、島民被害の実態調査を訴えた。
 そこで、原水禁は同年十二月、現地に調査団を派遣した。平和運動関係団体でビキニ被災事件の現地に調査団を派遣したのは世界でこれが初めてだった。団長は原水禁常任委員で医師の本多喜美さん。事務局長役に原水禁事務局の池山重朗氏、団員には広島大学原爆放射線医学研究所の江崎治夫教授がいた。これに毎日新聞、中国新聞、共同通信の各記者と私の計四人が同行した。

 調査団は、羽田からグアムを経由してマーシャル諸島の中心、マジュロ島に行き、そこから被曝住民が暮らすロンゲラップ、ウトリック両島に渡る計画だった。全員、米国のビザ(入国査証)を取得していた。マーシャル諸島を含むミクロネシアは当時、米国の信託統治領だったからである。もっとも、調査のためのビザを申請したが、なかなか発給されないため観光ビザを取得したという事情があった。
 調査団は十二月七日に羽田を出発、八日にマジュロ島の空港に着いた。ところが、調査団は、出迎えたバロス議員からこう告げられる。「前日、サイパンにある米国政府機関から、調査団の入域は許可しないという電報が入りました」。調査団一行も同行記者団も、これには顔面蒼白。「身柄を拘束されるかもしれない」。突然の入域拒否にだれもが不安をつのらせた。
 調査団は空港近くのホテルに足止めを余儀なくされたまま、バロス議員やマジュロ在住の実力者であるアマタ・カブア・ミクロネシア議会上院議長(一九七九年、マーシャル諸島に自治政府が出来た際、初代大統領に就任)に事態を打開してくれるよう依頼し、推移を見守った。両氏はサイパンの米国政府機関に調査団の入域を認めるよう要請。さらに、両氏や調査団からの要請を受けたマジュロ駐在の地区行政官(いわばミクロネシアを統治する高等弁務官的な人物とのことだった)もアメリカ本国の法務次官に一行の入域を認めるよう電報を打った。
 しかし、米国政府からの返事は「調査には事前に許可を得ることが必要だが、調査団はそれをしていない。一番早くとれる航空便でマジュロから退去せよ。それまではマジュロに滞在することを認めるが、観光以外の活動をしてはならない。マジュロ以外の島々にゆくことも認めない」というものだった。いわば、退去命令であった。
 バロス議員はなおあきらめず「ロンゲラップ、ウトリック両島の被曝住民にとってまことに不幸な事態である。調査団の入域を許可しないなら、住民たちはAEC(米原子力委員会)が核実験後、毎年、両島に派遣している、コナード博士を団長とする医療調査団による調査を断ることになろう」と米国に伝えた。これに対する米側の回答は「現行法に基づく決定なので再考の余地はない。コナード博士による医療調査が拒否されれば、被曝者にとって不幸であろう。彼ら自身が最大の犠牲者になろうから」というものだった。こうして、被曝調査の道は完全に断たれた。

 調査団一行はグアム出発以来、米側の情報機関員らしい人物にずっとつきまとわれた。マジュロ滞在中もホテルのロビーには絶えずそれらしい人物の姿があった。調査団が終始監視されていたのは間違いなかった。なんとも不気味だった。
 グアム行きの航空便まで一週間あった。調査が不可能ということであれば、私たち記者団としてもやることがない。そこで、私は島内をめぐって島の現状を取材した。
 マジュロ島は、約六十の島からなるマーシャル諸島の中心地。首飾りのような形をしている。島の幅は約百メートル、長さは約五十キロ。標高約一メートル。島はサンゴ礁で囲まれているが、荒波がきたら、島全体が水没しそうな平たい島だ。そこにココヤシ、タコの木、パンの木がおい茂り、いかにも熱帯の島という感じ。人口は六千人から八千人とのことだった。
 ミクロネシアでも最果ての島だから、日本人観光客もたまにしか来ない。島に常駐する日本人といえば、商社員とその家族ら七人だけだった。が、「ニッポン」はいたるところに顔をのぞかせていた。
 三十代後半以上の島民のなかにはカタコトの日本語を話せる人がいた。タクシーに乗ったら、運転手が「内地からきたのか」と話しかけてきた。歩いていたら、「コンニチワ」とあいさつされた。お年寄りのなかには、天照大神、神武天皇、楠木正成、丹下左膳の話を覚えている人もいた。これも、ミクロネシアが第二次大戦で日本が敗けるまで、日本の統治下にあったからだろう。島のスーパーマーケットには、日本商品がところ狭しと並んでいた。

 調査団は十二月十六日、マジュロを離れた。結局、調査は不発に終わったが、調査団はマジュロ滞在中、ロンゲラップ、ウトリック両島からマジュロ島に移住してきていた被曝住民十四人にインタビューすることができた。米側の目を意識したひそやかなインタビューで、私たち記者団にも「目立たない取材」を求められた。
 それにしても、マーシャル諸島の住民が原水禁調査団を歓迎したにもかかわらず、米国はなぜ調査を拒んだのか。
 戦後、日本に進駐してきた米占領軍は即座に「プレスコード」を発令し、広島、長崎の原爆被害についての報道を禁止した。極秘裡に推進してきた原爆開発に関する機密が米国以外の国々にもれることや、原爆による悲惨な被害を知った人たちの間から反米感情が起こることわおそれたからではないか、との見方が一般的である。ビキニ被災事件でも、第五福竜丸の被曝について、事件直後、福竜丸はスパイ船ではないか、といった見方が米議会関係者から発せられた。これらの点を勘案すると、原水禁調査団についても、米国政府としては極度の警戒心をつのらせていたのではないか。私には、そう思われた。

原水禁による現地調査は不発に終わったが、調査団は被曝住民の一部、十四人に対するインタビューに成功した。その結果は、後日、原水禁から発表され、被害実態の一端を示すものとして関心を集めた。その後、一九七二年から、斉藤達雄(共同通信記者)、土井全二郎(朝日新聞記者)、前田哲男(ジャーナリスト)、島田興生(フォトジャーナリスト)、豊崎博光(同)、竹峰誠一郎(早大大学院生)の各氏らによるビキニ被災事件の現地取材・調査が行われるようになり、事件の全容が次第に明らかにされていった。被曝がロンゲラップ、ウトリック両島ばかりでなく、他の島々にまで及んでいたことや、被曝に対する補償問題もなお未解決であることが明らかになった。いずれにせよ、原水禁による調査団派遣が、ビキニ被災事件の全容解明の先べんをつけたものであったことは確かだった。

 それに同行できたことは新聞記者として貴重な経験だったが、残念ながら、この取材旅行はなんとも苦い結末となった。
 マジュロを離れる時、私たち記者団は、「今回の同行取材に関する記事は十二月十九日付の朝刊にしよう」と申し合わせた。いわゆる“紳士協定”を結んだのだ。が、グアムに着いた私が十八日、東京本社社会部に電話を入れ、「あす十九日付の朝刊用に出稿します」と伝えると、電話口に出たデスクに「お前、何言ってるんだ。今朝の毎日新聞がすでに書いているぞ」とどなられた。社会面に「心のケロイドは消えぬ ビキニ水爆・マジュロ島の被災者」の見出しで、マジュロ島発の特派員電が載っているという。
 目の前が真っ暗になった。「やられた」と思った。羽田に向かう飛行機の中でも心は沈むばかりだった。新聞記者間の競争の激しさを、改めて思い知らされた。
 私のルポ「いまも不安な日々 ビキニの被爆者たち」が載ったのは、「毎日」より一日遅れの十二月十九日付朝刊紙面である。

 しかし、世の中は面白いもので、ミクロネシアの地を踏んだことで、その後、思わぬ取材経験をすることになる。

(二〇〇六年七月二十一日記)






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