もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第88回 横井庄一軍曹との一問一答


横井庄一・元軍曹がひそんでいたグアム島。グアム第一ホテルから見たタモン・ビーチ
(1972年1月、筆者撮す)




 一九七二年(昭和四十七年)一月二十五日午後十時過ぎ。グアム島のグアム第一ホテル。ここで、前日、同島タロホホ村で発見された元日本兵、ヨコイ・ショーイチさんと日本人記者団の会見が行われたが、その主なやりとりは次の通り。

 ――ヨコイさん、長い間、大変ご苦労さまでした。日本の国民はあなたが一日も早くお帰りになるのを待ちわびています。われわれは、あなたの敵ではありませんので、気を楽にしてお答え下さい。ところで、ヨコイ・ショーイチって漢字でどう書くんですか。 
 「縦横の横、井戸の井、庄屋の庄、棒一」
 ――年齢は。
 「五十八歳。大正四年生まれ」
 ――軍隊にいた時の階級は。
 「軍曹です」
 ――部隊名は。
 「タカナシ部隊。高い低いの高、梨の梨」(横井さんが所属していたのは第二十九師団=師団長・高品彪中将。横井さんの記憶違いか)                  
 ――ご出身地は。 
 「愛知県」
 ――愛知県のどこですか。
 「トミタ村。富士山の富、田んぼの田」
 ――名古屋に近いんですか。
 「名古屋に近い」
 ――出征された時は独身だったのですか。
 「はい」
 ――何歳でしたか。
 「二十七歳」
 ――ご家族はいたんですか。
 「いました。母親はほんとうの母親、父親は義理の父親です」
 ――お父さんの名前は。
 「エイジロー」
 ――栄えるの栄、それに次郎ですか。
 「はい」
 ―― お母さんの名前は。
 「ツル」 
 ――ひらがなですか、かたかなですか。 
 「ひらがな」
 ――ご兄弟は。
 「ありません」
 ――お宅のご職業は。
 「お父さんは百姓、わたしは洋服屋」
――和服ですか、洋服ですか。
 「洋服」
 ――軍隊に入られたのは志願ですか、応召ですか。
 「応召です」
 ――最初、満州に行かれたそうですね。そこにどのくらいおられたのですか。
 「三年」
 ――部隊の転属でグアム島に来られたわけですね。
 「そうです」
 ――満州では前線でしたか、後方部隊でしたか。
 「補給部隊です。ここでもそうです」
 ――グアム島に来られたのは。
 「戦争のね、米軍が上陸した年の二月です」
 ――グアム島に上陸されたあと、どんな仕事をされていましたか。
 「飛行場の工事」
 ――米軍が一九四四年、昭和十九年の七月二十一日にグアム島に上陸してきて、戦争になったわけですね。戦争はどのくらい続いたんですか。
 「一晩やった」
 ――ひと晩で勝負がついたんですか。
 「ええ」
 ――米軍が上陸した翌日から逃げ回ったんですか。
 「逃げ回ったんじゃあない。夜襲をやった」
 ――夜襲をやったが結局、日本軍が負けてチリヂリバラバラ になっちゃったということですか。
 「そうです」
 ――日本軍が負けたころ、横井さんはこの島のどこらにいたのですか。
 「昭和」(現在はアガト)
 ――チリヂリバラバラになって山の中へ逃げ込んだとのことですが、最初は何人ぐらいといっしょだったんですか。
 「わたしゃ、三十人ぐらい」
 ――三十人ぐらいから、だんだん別れていったわけですか。死んだんですか、落後したんですか。
 「だんだん落後したり、意見が合わなくなったり」
 ――最後は三人になったそうですが、それは何年ごろですか。
 「十四、五年前」
 ――他の二人の名前は。
 「シチ・ミキオ」
 ――どんな字ですか。
 「こころざすの志、愛知県の知、木の幹の幹、男」(実際は男でなく夫。横井さんの記憶違いか)
 ――どちらの出身ですか。
 「岐阜県の大垣市」
 ――もう一人の方は。
 「広島県」
 ――名前は。
 「ナカハタ・サトル。真ん中の中、畠の畠。サトルはどんな字か知らない」
 ――この方たちが亡くなったのはいつごろですか。
 「八年前のお正月。わたしの穴に会いに来た。それから一週間してわたしが訪ねていったら白骨になっていた」
 ――二人とはどのくらい離れて住んでいたんですか。
 「歩いて十五分くらい」
 ――横井さんが一人で暮らしたのは何年ぐらいですか。
 「八年」
 ――横井さんが住んでいたところはどんなところですか。
 「川ぶちの竹の根っこのところに穴を掘ってね。穴は深さが二メートル、横に四メートル」
 ――住んでいたところの様子をもう少し話してください。
 「ジャングルです」
 ――ジャングルって、どんな木が生えているんですか。
 「パンの木。竹やぶがあって、川がある」
――平らなところですか。
 「坂です」
 ――食べ物はどんなものでしたか。
 「ソテツの実、ヤシ、パンの実」
 ――川では何がとれましたか。
 「エビ、ウナギ。それからカエル、デンデン虫」
 ――食糧には困りませんでしたか。
 「最近は困っていました。台風がありましたからね。グアムにね、嵐が襲ってきてね」
 ――塩なんかどうしてたんですか。
 「塩ですか。塩はなんにもないです」
 ――塩味なしに煮たきしたんですか。
 「そうです。ヤシの実で煮たきをした。ヤシの実の白い水で」
 ――食事は一日何回でしたか。
 「二回。朝と夜」
 ――洋服なんかはどうしましたか。
 「自分でつくりました」
 ――どういうふうに。
 「ボクシの木の皮でつくった」
 ――糸は。
 「ボクシです。ボクシという木の皮です」
 ――横井さんの持ち物の中にロープがありますが、これは何に使うのですか。
 「これ、ヤシの皮です。火縄です。火をつけて保存する」
 ――火はどうして起こしましたか。
 「最初はレンズ」
 ――何のレンズですか。
 「懐中電灯。日本の日本光学のレンズです」(記者団からオーと驚きの声が上がる)
 ――最も苦しかったことは。
 「火がほしいのと、キレモノ(刃物のことか)がほしいのと、糧まつがほしかったこと」
 ――病気をされましたか。
 「三回。どんな病気かわからない」
――薬は。
「全然、ありません」
 ――戦争が終わったことをいつ知りましたか。
 「戦争が終わった明くる年。新聞を拾って、広げてみたらポツダム講和条約のことが出ていて」
 ――拾った新聞は日本の新聞ですか。
 「グアムのです」
 ――それじゃあ日本語じゃあないですね。
 「いや、日本語のです」
 ――スピーカーで降伏を呼びかけられたことはありませんでしたか。
 「スピーカーで呼びかけられたです。帰って来いと」
 ――降伏を呼びかけられても、どうして出てこなかったのですか。
 「怖いから出てこない」
 ――怖いってどういうことですか。
 「日本では昔ね、子どもの時から教育を受けてるでしょ。大和心で花と散れ。そういうように教育を受けていますよ。散らなきゃ、怖いです」
 ――つかまるまでに現地住民と会ったことがありましたか。
 「ない。姿を見たこともない」
 ――これから先、自分はどうなると考えていたんですか。
 「(しばらく考えてから)まあ、日本がね、グアムにやってくることもあるだろう、とね」
 ――いま、どんなお気持ちですか。
 「なにがなんだかわからない。みなさんを見ても、日本の方か、アメリカの方かわからない。みんな頭が高くなり、着ているものが変わっていましょ」(記者団から笑い声)
 ――日本へは早く帰りたいですか。
 「日本ですか。帰っても……(言葉が途切れる。しばらくして)帰っても恥ずかしいだけです」

 会見が始まった時、顔をしかめていた横井さんは会見の途中で落ち着きを取り戻したのか、微笑みさえ浮かべるようになった。初め、ぶっきらぼうだった受け答えにも柔らかみと余裕さえ出てきた。
 シンタク名誉領事の「もういいでしょう」の一声で、記者会見は終わった。時計の針は午後十一時を指していた。

(二〇〇六年八月十五日記)






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