もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
万座毛の断崖。突端に人が立っている。(1969年7月、
沖縄本島の恩納村で筆者撮す)
一九六九年(昭和四十四年)夏の沖縄。わずか一カ月の滞在だったが、私はすっかり沖縄のとりこになってしまった。
私をとらえた沖縄の魅力は、まず、その自然、とりわけ海だった。
沖縄本島を車で走ったことがあった。那覇から、本島を貫く大動脈である軍用道路の1号線を北上した。嘉手納村を過ぎ、読谷村に入る。なおしばらく走ると、両側から迫っていた山の前方が急に開け、海が見えてきた。車はその海を左に見ながら海辺の道ををさらに北上したのだが、左手に広がる海がなんとも美しかった。
白い砂浜の向こうに広がる、穏やかで静かな海。それはエメラルドグリーンだった。しかも、こちらが車で移動するたびに、そのエメラルドグリーンの海面が刻々と変化する。いままで濃緑色に見えていたところが瞬く間に薄い緑色に。と、それが瞬く間に青緑色に。そして、それが一転してコバルトブルー、あるいは紫色、時には黄色に。まさに千変万化。まるで魔法使にあやつられた海の色の七変化を見る思いだった。「七色の海」という言葉がふさわしかった。
私は、思わず息をのんだ。そんな海が、しばらく続いた。このような海を私はそれまで見たことがなかった。あとになって、ここが「ムーン・ビーチ」と呼ばれる沖縄でも代表的な海辺であることを知った。
この海岸一帯はサンゴ礁からなる。このため、太陽の位置によって海の色が幾通りにも微妙に変化するのだという。
サンゴ礁と外海とはその海の色を異にしている。サンゴ礁の海の色はエメラルドグリーンだが、外海のそれは紺青である。その境で波が砕け、白波が立つ。だから、飛行機に乗って上空から沖縄の島々をみると、紺青の海に浮かぶ島々の周りだけがエメラルドグリーンに輝き、まるで島々が真珠の首飾りをしているかのように見える。
ビーチを過ぎ、1号線をさらに北上すると、恩納村に入る。すると、すぐ左に海に面した断崖があった。サンゴ礁が隆起してできた断崖だった。断崖から見下ろすと、眼下の海は静かで、底まで透き通っていた。
この断崖一帯は「万座毛」(まんざもう)と呼ばれる。断崖の上は平坦で、かなり広い芝原。その昔、琉球王がここを訪れ、断崖と断崖から望む海の景観の美しさを「万人を座らせるに足る」とたたえたことから、そう呼ばれるようになった、と地元の人に聞いた。
万座毛からさらに1号線を北上すると、本島北部最大の町、名護町に達する。市街の南西方向に名護湾が開ける。波静かな湾だ。イルカ獲りがここの名物、と聞いた。静かな落ち着いた町で、新婚旅行でここに来る人が多い、とも聞いた。また、那覇より気温が低いので、避暑地でもあるとのことだった。
1号線の終点、沖縄本島最北端の辺土岬から見る海も素晴らしかった。岬の突端は海に落ち込む絶壁である。風が吹き上げる絶壁に立つと、眼前にぐるりと豪快な海が果てしなく広がる。天気がいいと、日本の最南端の与論島が望める、とのことだった。
別の日、私は糸満町の漁師に頼んで舟に乗せてもらった。沖縄の漁業を知るためである。夜八時過ぎから翌朝まで。真っ暗闇の糸満沖に漂うくり舟の上で、私は一睡もすることなく一夜を過ごした。やがて、東方の水平線から真っ赤な太陽が昇ってきて、海原は金色に輝き、水平線上にたなびく雲はあかね色に染まった。沖縄の夜明けの海の美しかったことをいまでも鮮やかに思い出す。
とにかく、私は沖縄の海にすっかり魅了されてしまった。これには、私が海のない信州で生まれ、育ったことも影響していたかもしれない。海と縁遠かった私が、十分過ぎるほど海と接する時間を与えられて、海に親しむことができたからだ。それからまた、急速な開発のため汚染が進む本土周辺の海に比べて、沖縄の海がまだ自然そのままだったことも、私が沖縄の海に惹かれた理由の一つだった。本土ではすでに失われた自然が、沖縄にはあった。
沖縄の植物も、私にとっては魅力的だった。
沖縄は亜熱帯に属するから、その植物も本土とは異なる。葉は厚いし、花の色も一段と鮮やか。それに、寒い北国の樹木は真っ直ぐ天に向かって伸びるが、沖縄では枝を四方に広げ、地面に濃い影を落としている。
私が沖縄に来て沖縄らしい植物だなと感じたのは、ガジュマル、デイゴ、アカギ、アダン、フクギ、ハイビスカス、ブーゲンビリア、モクマオウ、マングローブ、ホウオウボク、クロトン、月桃、ギンネム、ソテツ、サトウキビ、パパイヤ、パインアップルなどだ。どれもこれも、むんむんと生気を放ち、葉や花に勢いがあった。
私は、これらの植物をすっかり好きになってしまい、飽かずに眺めたものだ。私が生まれ、育った信州は冬が長く、寒気も厳しかったので、こうした精気みなぎる南国の植物にいっそう惹かれたのかもしれない。
なかでも、ガジュマルには「沖縄」を感じた。本土では見かけない樹木だったからだ。常緑の高木で、枝からひげのような気根がたくさん垂れている。気根は地中に入り、支柱根となる。大木は日陰をつくるので、夏は、人々の憩いの場となる。名護町の中心では、こんもりとしたカジュマルの巨木が濃い日陰をつくっていた。
フクギも、いかにも沖縄らしい樹木だ。都市部から離れた集落では、防風林として植えられていた。その並木に出合うと、妙に気分が落ち着いた。濃い緑の肉厚の葉っぱが強烈な太陽光線をさえぎって、日陰ができている。その日陰に入ると、耐え難い暑さが急に引き、涼しくなる。それは防風林の役目を果たすとともに、避暑用の空間をつくりだしていた。そこで涼をとりながら、沖縄の人たちの生活の知恵に感じ入ったものだ。
雨の日は、スコールのような大粒の雨がフクギの葉をたたいた。その時の風情もまた捨てがたかった。
防風林といえば、アダンやモクマオウも海岸の防風林として植えられていた。アダンはパイナップルのような実をつけていた。
ハイビスカスも沖縄を代表する木だ、と思った。島中、どこにでもあった。別名ブッソウゲ(仏桑花)。さまざまな色の花をつけていたが、年中咲いているとのことだった。
ところで、沖縄の自然に接していると、心身ともに解放されるような爽快感が体中に満ちてゆくのを感じたが、突然、違和感に襲われることがたびたびあった。素晴らしい自然を堪能していると、突然、無粋な金網が行く手をさえぎるからだった。米軍基地を囲む金網であった。そこには「立ち入り禁止」の表示が掲げられていた。自然への讃歌が、急に断ち切られる思いだった。
例えば、目を見張るような美しいビーチが、「立ち入り禁止」になっているところがあった。それは米軍専用の海水浴場であったり、米海軍の港湾施設や訓練場であったりした。そんな時、改めて「沖縄の中に基地があるのではなく、基地の中に沖縄があるのだ」という現実に引き戻された。そして、こう思ったものだ。「美しい沖縄の自然には戦争のための施設である基地はそぐわない」と。
(二〇〇六年六月二日記)
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