もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第81回 歴史が生んだ独自の文化


琉球舞踊。古典女踊りの伊野波節(1969年11月)




 私が沖縄に魅せられたのは、その自然ばかりでなかった。文化にも魅せられた。
 一カ月にわたる滞在中、さまざまな文化に接する機会があった。その機会を重ねるうちに、ここには豊かな独自の文化があることを知った。そして、接すれば接するほど、私はそれに惹かれていった。

 沖縄には、鉄道や電車がない。だから、取材の“足”は専らタクシーだった。
 一九六九年(昭和四十四年)夏。沖縄のタクシーには、まだクーラーが入っていなかった。沖縄の夏はことのほか暑い。それゆえ、タクシーが窓を閉め切って走ろうものなら、車内はたちどころに灼熱の密室と化す。で、タクシーはいずれも窓を一部開けて走っていた。運転手は汗みどろのランニングシャツ姿。照りつける強烈な日差しを避けるため、フロントガラスには手ぬぐいがぶらさがっていた。
 運転席のラジオから流れてくるのは、決まって民謡だった。昼間、炎暑のタクシー内で民謡を聴いていると、なんともけだるい気分になったが、一日中、民謡を流しているラジオ局もあった。
 夜、琉球料理店や民謡酒場に行くと、民謡が流れていた。よく耳にしたのは、「安里屋(あさどや)ユンター」「谷茶前(たんちゃめ)節」「てんさぐの花」など。「またはーりぬちんだらかぬしゃまよ」(安里屋ユンター)。いつのまにか、どんな意味かを理解しないまま民謡の一節を覚えてしまった。
 明るい民謡もあれば、離島苦(島ちゃび)を唄った哀調をおびたのもあった。道徳的ないましめというか、一種の教訓を込めたような歌詞をもつものもあった。
 民謡に欠かせないものがサンシン(三味線)である。本土では、三味線は専門家を除けば芸者さんの楽器というイメージが強いが、沖縄では一般の人々の楽器だ。サンシンを奏でながら民謡を歌う。これが、沖縄の日常の光景だった。

 民謡とともに、人々の生活と切り離せないのが踊りだ。まさに沖縄は「歌と踊りの島」(比嘉春潮、霜多正次、新里恵二共著の『沖縄』<岩波新書、一九六三年>)だった。
 沖縄の人たちは祝い事があると、サンシンを奏でながら踊りを踊る。その踊りは大別して二つに分けられるようだった。カチャーシーといわれる庶民的な踊りと、古典舞踊の二つ。
 カチャーシーには特に決まった型はない。サンシンや太鼓のリズムに合わせて手や足を自由に動かす。見ている方も踊り出したくなる楽しい踊りだ。歓喜の踊り、といった感じだった。
 一方、古典舞踊は「琉舞」と呼ばれ、宮廷の踊りとして受け継がれてきただけに、形式が重視され、おごそかに演じられる。本土の能の様式が取り入れられている、と沖縄の人に聞いた。踊り手の動作では腰に重点が置かれ、それが手、足、顔へと伝播してゆく。目線は動かず、顔の表情にも動きがない。
 カチャーシーが外へ外へとエネルギーが放出されてゆく奔放な踊りなら、こちらはエネルギーを内へ向けて凝縮してゆくような踊り。あるいは、内面の躍動を全身のわずかな動きで表現する踊りといってよい。とにかく、ゆるいテンポの静かな動きを通じて踊り手の思いがひたひたと伝わってくるような優美な踊りである。
 琉舞にはいくつかの流派があるようで、流派ごとに練習や発表会がいたるところで行われているようだった。私が那覇に滞在中、沖縄タイムス本社のホールで琉舞の発表会が開かれているのを見かけた。

 琉舞の踊り手が身にまとうのは、紅型(びんがた)の衣装だ。その赤、黄、青……といった原色の彩りは、実に鮮やかで、華麗で、みやびやかで、なんとも美しい。
 紅型とは型紙を使った色染めのこと。布(木綿、芭蕉布、絹、麻など)を平らな板の上に広げ、その上に型紙を置いてノリを塗る。ノリが乾いたら、型紙を取り除き、ノリの塗られていないところに筆で色を差してゆく。色差しに使う染料はウコン、フクギの皮、藍、朱粉、墨など。色差しが終わると、布を樹液と大豆の絞り汁の混合液に浸して色を定着させる。ノリを洗い流すと、白地に染めた模様だけが残る。紅型の図柄は花、木、草、雲、鳥など。四百年の歴史をもつが、型染め技法は中国と日本から伝わったという。
 那覇の首里城祉の近くに紅型の工房があった。そこを訪れる機会があったが、出来上がるまでの工程を見たことで、いっそう紅型に惹かれた。そして、原色鮮やかな紅型を目の前にしてこう思ったものだ。「南国の強烈極まる太陽光線のもとでは、これくらい強い色でないと自然に負けてしまい、衣装としての特色を打ち出せないのだろうな、きっと」

 予想に反して、住宅の大半はコンクリートづくりだった。それも、頑丈なつくりだ。台風に備えてのことだろう、と思った。が、町を歩いていると、ときたま、赤瓦の屋根の木造家屋に出合った。赤瓦は赤土を焼き、それを白い漆喰で塗り固めたものだ。赤瓦の屋根には、小さな獅子がちょこんとのっかっていた。「シーサー」である。なんともかわいいシーサーもあれば、ユーモラスなシーサーもあった。地元の人によると、悪霊から屋敷を守る魔よけだという。
 また、道路端や家々の門口には「石敢當」と彫られた石柱が立っていた。「いしがんとう」と読む。これも、魔よけだという。
 「シーサーも石敢當も中国から伝わった風習ですよ」と話してくれた人がいた。どちらも私の目には珍しく映り、沖縄らしい風景としてすっかり気に入ってしまった。 
 シーサーは焼き物の一種だが、那覇は沖縄随一の陶器の産地だった。ここで産出される代表的な陶器が「壺屋焼」(つぼややき)である。三百余年の歴史をもつと聞いた。那覇市街の一角に壺屋という地域があり、工房や商店が軒を連ねていた。そこで目にした壺屋焼は、見るからに素朴で、がっしりしていて、温もりが感じられ、庶民の生活に根ざした陶器という印象を受けた。私はすっかり病みつきになってしまった。

 市街地から出ても、沖縄らしいなと印象づけられるものが多々あった。その一つが、グスクだ。小高い丘の上に展開する遺跡のことである。大きさや形はさまざまだが、今はいずれも城壁のみで、建造物はない。それがいったい何であったかについては、城館説、集落説、聖域説などがあるとのことだった。いずれも十三世紀から十五世紀にかけてかけて構築されたらしい。
 その一つ、沖縄本島中部にあもる中城(なかぐすく)城跡を訪ねた。広々とした丘の上に展開する城跡で、雄大な城壁と、そこから望める三百六十度の展望に息をのんだ。東西の方向にそれぞれ紺青の海が見えた。もしかしたら野外劇が行われたのではないか、と思わせるような平坦な舞台状の広場もあった。夜、満月の下、ここで古典劇でも上演すれば幻想的だろうな、と思った(沖縄本島のグスクは他にもあり、これらのグスクは二〇〇〇年に世界遺産として登録された)。

 山の中腹に点在する「亀甲墓」(かめこうばか)にも興味をおぼえた。山の中腹を掘り、石を巻いて屋根をつけた墓で、一見、まるで亀の甲羅のような形をしている。中国から伝わったものと聞いた。また、「その形は女性の胎内を表す」とも聞いた。「人間は母の胎内から生まれ、死ぬと再び母の胎内に戻るとの言い伝えがある。この墓はそうした言い伝えを象徴しているんです」。
 なかには、巨大な亀甲墓があって圧倒された。墓の中は広いので、沖縄戦中は防空壕、避難壕として使われたという。沖縄では祖先崇拝が根強く生き続けている、と聞いたが、亀甲墓を見ていると、それが納得できた。

 私が「沖縄らしい」と感じた文化は、その起源をたどると、琉球王国時代に端を発しているものが多かった。琉球王国は、一四二九年から一八七九年までの四百五十年間続いたが、前半の百八十年は独立王国で、王国が最も繁栄した時代だった。その繁栄は、王国が交易国家、海洋国家であったことでもたらされた。つまり、王国は日本、朝鮮、中国、南方諸国を相手にした仲介貿易で多大な利益を得て、経済的な繁栄をおう歌する一方、自ら豊かな文化を生み出したのだった。
 加えて、王国の人々は交易を通じて接した周囲の諸国・地域の文化を積極的に取り入れた。その結果、王国の文化に外国の文化がミックスされ、独特の風合いをもつ沖縄独自の文化が醸成されたのだった。

 文化といえば、食もまた文化である。沖縄を代表する庶民の料理といえば「チャンプルー」だ。豆腐と緑黄色野菜を油でいためた料理のことである。なかでも最も一般的なのが「ゴーヤーチャンプル」。ゴーヤー(にがうり)と豆腐と豚肉などを一緒にいためる。沖縄の人たちは毎日、これを食し、事実、美味であきない。
 「チャンプルー」とは「混ぜもの」の意味だ。沖縄の文化もまた、沖縄独自の文化に周辺の諸国・地域の文化を加味した「チャンプルー文化」といえよう。

 沖縄は太平洋戦争末期に米軍に占領され、その後、日本から切り離されて米国の施政権下に置かれた。米国の制度、物資、文化がどっと沖縄に流入してきた。が、沖縄の人たちは、心だけは植民地化の波濤に巻き込まれることなく、異民族支配に抵抗し続けた。その沖縄の人たちを支えたのは、自分たちの伝統的な文化だった。伝統文化こそ、民族の魂であり、生きる上でのよりどころだったのである。
 「伝統に対する信頼がなかったら、沖縄の植民地化はもっとひどかったと思います」。沖縄タイムスの創刊者で、戦争によって打撃を受けた伝統文化の復興に力を注いだ豊平良顕氏(故人)の言葉である(朝日新聞社刊『沖縄報告』から)。

(二〇〇六年六月一〇日記)






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