もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第79回 圧政と差別の歴史に声もなく


琉球王国のシンボル、守礼の門(戦争で破壊されたが1958年に復元された。
(上)は1969年7月、(下)は1993年7月、いずれも筆者撮す)




 新聞記者として取材活動をしていると、さまざまな感慨に襲われる。晴れ晴れした気分になる時があるかと思うと、逆に気が重くなる時がある、
 沖縄での取材は、後者の方だった。沖縄の歴史と現状を知れば知るほど、私は自分の気持ちが沈潜してゆくのを感じた。

 沖縄の歴史は、一言でいうと圧政と差別のそれだったと思う。
 沖縄の人たちは、人類学的、言語学的にみて本土の日本人と同じ系統に属すとされている。その沖縄では、政治的にはばらばらの状態が長く続き、統一政権が生まれたのはようやく十五世紀に入ってからだった。
 沖縄関係の書物によれば、十四世紀、沖縄本島では「北山(ほくざん)」「中山(ちゅうざん)」「南山(なんざん)」と呼ばれる三つの勢力が対立し、抗争を続けていた。そんな中、南部から兵を挙げた尚巴志(しょうはし)が三山の勢力を倒して天下を統一し、琉球王国(第一尚氏王朝)を樹立する。一四二九年のことだ。
 一四七〇年にはクーデターが起き、琉球王国は第二尚氏王朝となる。その後、名君といわれる尚真王(在位一四七七〜一五二六年)が出て、王国は繁栄の絶頂期を迎える。それを支えたのは、日本、中国(明)、南洋諸国を結ぶ仲介貿易で得た利益だった。具体的には、王国は中国から輸入した品々を北の日本や朝鮮、南の東南アジア各地に転売し、同時にこれらの地域で中国向け輸出品を調達し、中国に輸出した。海外交易で得た利益で王国は大いに栄えたのである。
 ところが、日本の大名、薩摩の島津家久が仲介貿易の利益に目をつけた。島津は一六〇九年、軍勢三千余を沖縄に送り、琉球王国を占領する。以後、明治維新まで、王国は薩摩藩の圧制下に置かれる。琉球王国の命脈は四百五十年。前半の百八十年は独立王国、後半の二百七十年は薩摩藩の属国であった。
 薩摩藩は琉球王国を属国として支配しながら、王国には、中国(清)に対して独立国のようにふるまわせ、清への朝貢を続けさせた。こうして、王国に引き続き仲介貿易で高い利益をあげさせ、それを吸い上げた。王国が徳川幕府への慶賀使を江戸に上がらせる際には、中国風の装いをさせた。「異民族」を支配する藩だという権勢を誇示するためであった。
 とにかく、明治維新で、薩長土肥が徳川幕府を倒すことができたのは、一つには、薩摩藩に軍資金が豊富だったからで、それは薩摩藩が琉球王国から吸い上げた利益をそれに充てることができたからだ、との見方があるくらいだ。

 一八七一年(明治四年)、明治政府は廃藩置県を断行する。次いで一八七五年(同八年)、明治政府は琉球藩王に「清との関係を断て」「明治の年号を使い、年中儀礼はすべて日本の布告にしたがえ」「謝恩のため藩王みずから上京せよ」などの要求を突きつける。これに琉球藩が抵抗すると、政府は歩兵大隊約四百人、警察官百六十人を従えた琉球処分官を派遣し、琉球藩を廃し沖縄県を設置する旨の太政大臣命令を伝達する。一八七九年(同十二年)のことである。これが、いわゆる「琉球処分」で、琉球王国は力づくで日本国に併合されてしまった。

 沖縄県に対する政府の強圧的な姿勢は、その後も続き、本土の各県とは比べものにならぬ差別政策がとられることになる。官僚はほとんど本土出身者を充て、諸制度の近代化も本土のようには進めなかった。このため、沖縄の近代化は著しく遅れた。
 政府による沖縄に対する差別は、本土の一般人の沖縄県民を見下げる態度につながった。比嘉春潮、霜多正次、新里恵二共著の『沖縄』(岩波新書、一九六三年)は書く。
 「沖縄からは、喰えなくなった農村の青年男女が阪神や京浜の工業地帯に出稼ぎに出るものが絶えなかった。かれらは主として紡績女工や町工場の工員となり、最下層の低賃金労働者として働かなければならなかったが、その就職も容易でなく、ときたま『職工入用。但し朝鮮人と琉球人お断り』などという貼紙を見せつけられるのだった」

 その後の沖縄といえば、すでに述べたように、太平洋戦争末期に日米決戦の舞台となった。米軍の艦砲射撃によって沖縄本島に撃ち込まれた砲弾は数百万トンといわれる。まさに“鉄の暴風”であった。この沖縄戦に巻き込まれて生命を奪われた沖縄県民は約十六万人とされる。戦死した兵士の数よりも多かった。県民四人に一人が死んだことになる。一般住民は、本来ならば戦争では保護されるべき存在なのに、沖縄戦では戦争協力に動員された。そのことが、沖縄県民の犠牲をいっそう多くした。
 本土から増援がなかったことも、沖縄戦での兵士、住民の犠牲を多くした、と沖縄では語られていた。大本営はなぜ、沖縄守備軍や住民を“見捨てた”のか。「本土決戦に備えていた大本営が、米軍の本土進攻を遅らせるために、米軍を沖縄にできるだけ長く足止めさせ、消耗させる必要があったからだ」と、私が出会った沖縄の人は言った。
 琉球処分以来、本土政府から差別されてきた沖縄県民。沖縄戦にあたっても本土政府から見捨てられた沖縄県民。にもかかわらず、沖縄戦では、老若男女が軍と行動を共にした(共にさせられたというべきか)。日本人であることの証しを示そうとしたのだろうか。
 いずれにせよ、その働きに、海軍根拠地司令部壕で自決した司令官・大田実少将も海軍次官あての最後の電報で「県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ケ 老幼婦女子ノミカ相ツク砲爆撃ニ家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難……而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 看護炊事婦ハモトヨリ 砲弾運ヒ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ……看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ……沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配賜ラレンコトヲ」と打たざるをえなかったのである。

 そして、戦後。米軍に占領された沖縄は対日平和条約(サンフランシスコ条約)で、日本から切り離され、米国の施政権下に入れられる。この結果、沖縄全体が米軍基地化し、日本国土面積の〇・七%に過ぎない沖縄に日本における米軍専用施設の七五%が集中するまでになる。沖縄だけに背負わされた、この負担のなんという重さ。この数字を知ったとき、私は沖縄の人たちを取り巻く過酷な環境の一端に触れた思いで、沈黙するほかなかった。そればかりでない。ベトナム戦争が始まると、それらの基地は米軍の後方基地となった。それにともなって、基地災害が増えたことはすでに述べた。
 こうした沖縄の歴史を知るにつけ、私の中で、こんな見方が強くなっていった。沖縄は「悲運の島」と呼ぶにふさわしいのではないか、と。

 沖縄本島のあちこちを訪ね歩いていると、明治以降の本土政府の沖縄への差別政策と、その後の米国支配が沖縄もたらしたものの一端が、目に入ってきた。
 まず、鉄道が見当たらなかったこと。歴代政府が沖縄に国有鉄道を敷設しなかったからだ。日本の近代化では、国鉄が産業発展のための物流を支えたが、これが建設されなかった沖縄では産業の発達が著しく遅れた。鉄道に代わる交通手段として、戦後の沖縄では自動車の普及が進んだが、これは一方で都市部での慢性的な交通渋滞を生んだ。
 それに、政府は沖縄に国立学校もつくらなかった。このため、人材養成が遅れた。これは、沖縄の各分野に影響を及ぼしたように私には思えた。高等教育を目指す人は、本土に留学せざるをえなかった。これは、沖縄の人たちにとって経済的な負担となった。
 私の目にはまた、道路や港湾などのインフラがひどく貧弱に映った。これも、明治以来、本土政府が社会基盤の充実のための積極的な資金の投入を怠ってきたうえに、戦争による荒廃から立ち上がる時に、本土政府からの積極的な支援がなく、米国も基地機能の強化には惜しみなく力を注ぐものの、住民の民生の安定のための施策には熱心でなかったことが響いているように思われた。
 当時の沖縄の一人あたりの県民所得は六五三ドル(一九六八年度)で、本土平均の六〇%程度。暮らしの面で本土との格差がいかに大きいかを、この数字があますところなく示していた。要するに、明治以降の沖縄に対する本土政府の姿勢が、こうした格差を生んできたのだ。私にはそう思われた。

 薩摩藩による侵攻以来、日本から抑圧と差別を受けてきたのに、その日本に復帰したいという。いったいどういうことなのだろう。私が出会った沖縄の人は言った。「ヤマトンチュは嫌いだ。が、異民族支配と基地の存在はなんとも耐え難い。だから、それから脱するために、私たちは平和憲法をもつ日本に復帰することを選択したんです」。ヤマトンチュとは本土人のことである。ちなみに、沖縄の人たちは自らを「ウチナンチュ」と言う。

 こう書いてくると、「悲運の島」の人たちはいつも沈鬱な表情で、肩いからせて、ヤマトンチュと米国への不信や憤りばかりを口にしてきたのだろう、と思う向きもあるにちがいない。が、私が出会った沖縄の人たちはそれとはまさに正反対で、陽気で、おおらかで、島外からきた者に優しかった。開放的で、のびやかで、楽天的でもあった。
 おそらく、亜熱帯に属する南国的な気候と、周囲を海に囲まれているという地理的条件が、こうした沖縄の人たちの性格を形成してきたのだろう、と私は想像した。もっとも、本土の人間はせっかちだから、時として、沖縄の人たちのスローテンポには戸惑うこともあったが。

(二〇〇六年五月二十 四日記)






トップへ
戻る
前へ
次へ