もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第78回 戦争に魅入られた島・沖縄


写真左は日本軍終えんの地となった摩文仁の断崖、写真右はひめゆりの塔(いずれも沖縄県糸満市で。1996年6月、筆者撮影)




 一九六九年(昭和四十四年)夏、沖縄。私は朝日新聞の長期連載『沖縄報告』の取材班の 一員として、沖縄本島をかけずり回っていた。
 取材を通じて沖縄のことを知れば知るほど、私は厳然たる事実に言葉を失った。すぐる第 二次世界大戦末期に沖縄で行われた、日米両軍による戦争が沖縄と沖縄の人たちに残した傷痕の深さにである。

 ある日、私は那覇から南へ向かった。沖縄本島の南部を訪ねるためだ。その一帯は「南部 戦跡」と呼ばれていた。「戦跡」という名が示すとおり、そこは日本軍が壊滅した地域で、戦争 にからむ遺跡が集中しているとのことだった。

 米軍が沖縄本島中部西海岸の読谷に上陸したのは一九四五年四月一日。このため、沖縄本島は米軍によって南北に分断される。日本軍(第32軍)は中部から南部にかけて防衛線を敷いていたので、南下してきた米軍と日本軍との間で激烈な戦闘が展開された。しかし、圧倒的な米軍の攻勢に日本軍は次第に南方に撤退を余儀なくされる。ついに那覇の首里城に置かれていた日本軍の司令部も陥落し、日本軍は南部に向けて敗走する。住民も戦 闘に巻き込まれ、日本軍と行動をともにする。
 私が沖縄取材に出かける直前に東京で購入した「ブルー・ガイドブックス44」の富田裕行著『沖縄』(実業之日本社発行、一九六七年)は、当時の状況をこう書いていた。

 「優勢を誇る米軍は第32軍をひた押しに押し、5月29日、那覇市を占領、5月30日、首里城を占領した。
 首里城にいた第32軍司令部は5月28日、首里を撤退、豪雨の中を那覇南方の摩文仁に 移った。このあたりから日本軍の戦線に混乱が生じはじめてきた。豪雨の中を、部隊は算を 乱して南下していった。
 負傷兵は歩けず、砲弾の飛びかう中を立ちどまったまま動けなかった。とりのこされ、その まま生き倒れた兵もあった。部隊の移動には、沖縄住民が兵器の運搬に動員された。住民 は兵器を運ぶ途中倒れた。戦線にまぎれこんだ避難民があてどもなくさまよっていた。この ような混乱の中を米軍はひたひたと押し寄せてきた。苦戦をつづけているにもかかわらず、 大本営からは一兵の増援もこなかった。一発の弾丸もとどかなかった。孤立と無援、第32軍の立ち場は、見捨てられた軍隊となった。牛島司令官も長参謀長も豪雨の中を雨にうたれながら進んだ。馬が泥土に足をとられ、思うように進めなかった。一語を発する者もなく、 黙々と進んだ」
 「6月18日、米司令官バクナー中将が高嶺村真栄里で戦死した。……軍司令官を失った米軍の攻撃は、復讐にたけり狂ったかのごとく、猛烈をきわめた。すでに第32軍は戦うに武 器なく、白兵戦、肉弾戦を敢行する以外方法がなかった。
 6月19日、もはや死を決した牛島司令官は阿南陸軍大臣あてに訣別の電報を送った。そ してひめゆり部隊の解散を命じた。しかしこの解散命令は遅く、同日ひめゆり部隊二〇四名 が戦死した」
  「6月22日、牛島司令官、長参謀長自決のときがきた。……両将軍は静かに死んだ。第3 2軍はかくして亡んだのである」
 『沖縄報告』には「佐賀県より一二平方キロ狭い沖縄で、戦闘は三カ月つづいた。戦死者は、日本軍一〇万、米軍一万二〇〇〇、沖縄住民六万二〇〇〇。ただし沖縄住民については、女子学生や栄養失調による死者などを含めると一〇万から一六万と推定されている。 沖縄住民の当時の人口は約六〇万」とある。
 
 「南部戦跡」と呼ばれる一帯はサトウキビ畑が広がっていた。その中の、糸満町伊原という 地区に「ひめゆりの塔」があった。戦没したひめゆり学徒を合祀する慰霊塔だ。塔の前に深 いガマ(自然壕)が口を開けていた。ひめゆり学徒が最後まで看護活動をしていたところだ。 のぞくと、中は暗かった。塔のわきに小さな碑があり、「いはまくらかたくもあらんやすらかに  ねむれとぞいのるまなびのともは」と刻まれていた。
 ここを訪ねる前、私は、ひめゆり部隊最期の地は低い山か丘の中腹に掘られた横穴かとばかり思っていた。高校時代に観た劇映画『ひめゆりの塔』の影響かもしれない。それが、 平坦なサトウキビ畑のなかの自然壕で、意外だった。

 ひめゆりの塔の南には、小高い丘が広がっていた。摩文仁の丘だ。立木は目に入らず、 見渡す限り原野だった。そのことが、私の胸をしめつけた。「米軍に追われてここまで敗走してきた日本兵や住民には、米軍の砲撃を避ける遮蔽物さえなかったのだ。まさに悲惨極まる 敗走だったにちがいない」
 丘へ登って、目を見張った。眼前にさまざまな形をした石碑が林立していたからである。沖 縄戦で戦死した兵士たちの慰霊塔だった。それは、各県ごとに建立されていた。地元の人の 話では、東京都立だけはないとのことだった。
 私は、それまで戦没者の慰霊塔を見たことがあったが、これほどたくさんの慰霊塔が一カ所にまとめて建立されているのは見たことがなかった。それは、思わず襟をたださざるをえないような光景だった。林立する慰霊塔群を眺めていると、沖縄戦での戦死者の多さに改めて 粛然とさせられた。
 ただ、慰霊塔が県ごとに建てられていることに少し違和感を覚えた。「戦争で犠牲になったという点ではみな同じなのに、死んでからも出身県ごとに分けて祀られているのはどうしたものか」との思いが心をよぎったからだ(沖縄戦で亡くなったすべての人々の氏名を刻んだ記 念碑「平和の礎(いしじ)」が、沖縄県によって摩文仁に建設されたのは一九九五年のことである )。

 丘の頂に立つと、眼前には広漠とした濃紺の太平洋が広がっていた。丘から直下の海辺 までは断崖であった。断崖に立つと、ここが沖縄本島の最南端、どんづまりであることが分かった。ここから先は海で、もう逃げ場がない。頼みとする本土からの増援はない。もはや絶対絶命。米軍に追いつめられた兵士や住民の絶望感が、ひしひしと伝わってきた。ここで自決した者も少なくなかったという。断崖を少し海側に降りると、牛島司令官らが自決した洞窟があった。
 断崖の下の海辺には、白い波が、絶え間なく押し寄せていた。耳をこらすと、潮騒が聞こえ てきた。私には、それが、ここで最期を迎えざるをえなかった多くの兵士や住民たちの「死に たくない」「生きたい」という悲痛な叫びや悲鳴のように思えた。 

 県民の四人に一人が命を落とした沖縄戦。私が初めて見た沖縄はその沖縄戦から二十四 年経っていたが、戦争はまだ遠い過去のものとはなっていなかった。いや、むしろ、沖縄は戦場とじかにつながっているように思えた。というのは、一九六九年は激化するベトナム戦争の最中であり、沖縄の米軍基地は米軍のベトナム作戦の後方基地、兵站基地の役割を果たしていたからだ。沖縄の人たちに“黒い殺し屋”とおそれられていたB52も、沖縄の米軍基 地からベトナムへ渡洋爆撃に出撃していた。
 戦火を直接浴びないものの、沖縄はきな臭い空気に包まれていた。沖縄の人々にとって戦 争は「遠い過去のもの」でなく、今なお「現実」そのものであったのだ。
 米軍基地には、日本軍が戦前建設した基地をそのまま転用したものもあった。それを使っ て、新たな戦争が続けられている。ということは、ある意味では、沖縄戦は過去のとばりの中 に葬り去られたとはいえず、今なお続いているとも言えるのではないか。私には、そう思えた のである。 

 戦中ばかりでなく、戦後も死に神・戦争にわしづかみにされてきたかのような沖縄。それもこれも、戦争を遂行しようとする者にとって、沖縄が昔も今も戦略上かけがえのない要石的な位置にあるからである。沖縄を制する者が東アジアの制空権を握るといわれてきたほどだ。それだけに、沖縄戦で生き残った沖縄の人々が、戦争につながる一切のものを拒否するようになったのは極めて自然、といってよかった。沖縄の人々にとって「ぬちどぅ宝」(命こそ宝)なのだ。つまり、「平和」こそ、沖縄の人々の心底からの願いであったのだ。
 沖縄が地上戦の舞台となり、多数の沖縄県民がそれに巻き込まれて死亡したということは 知っていた。が、南部戦跡を訪れてみて、自分がその実相をほとんど知らなかったに等しい と思い知らされた。日本人の一人として、その実相を知らなかったこと、積極的に知ろうとしなかったことを恥じた。そして、現地でその実相を知れば知るほど、私は、沖縄の人たちが日本復帰にあたって掲げた「即時無条件全面返還」に込めた意味を理解するようになっていった。
               (二〇〇六年五月十五日=沖縄の日本復帰35年目の日 =記)





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