もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
1969年12月、嘉手納村(現嘉手納町)の16号道路(現県道74号)から見た
B52=大城弘明氏提供
朝日新聞に一九六九年(昭和四十四年)五月十八日から一〇〇回にわたって連載された
『沖縄報告』は、本土復帰前の沖縄を現地ルポによって紹介したものだった。それは五部か
らなっていた。第一部「島ちゃび」、第二部「ひと」、第三部「くらし」、第四部「こころ」、第五部
「叫び」である。
これを取材、執筆するため四次にわたる取材班が沖縄に派遣されたが、取材班のキャッ
プで終始、現地沖縄に常駐してデスクを務めたのが編集委員(政治担当)の桑田弘一郎氏
(その後、専務、全国朝日放送社長、日本民間放送連盟会長を歴任)だった。私は第二次
取材班の一員として派遣されたが、取材班は五人。東京本社から私を含め二人、大阪、西
部、名古屋の各本社から各一人という構成であった。
七月六日に那覇に着いた私たちが桑田キャップに申し渡されたのが、第三部の「くらし」の
取材、執筆だった。その時、桑田キャップはこう言い添えた。「君たちの沖縄滞在期間は一カ
月。沖縄の中ならどこへ行くのもまったく自由。その中で書きたいことを見つけてください。そ
して、各人にはそれぞれ四本の原稿を書いてもらいます。かかった経費は遠慮なく請求して
ください」
「なんと恵まれた取材条件だろう」と私は驚いた。当時の新聞社は余裕があったということ
だろうか。それとも、記事に深みと重みをもたせるために取材記者に十分な時間と経費を与
えたということだろうか。
かくして那覇市内のホテルと、ホテルに近い沖縄タイムス本社内にあった朝日新聞那覇支
局を拠点に、私たちの取材活動が始まったが、「沖縄内ならどこへ行っても自由」というか
ら、私はさっそく沖縄本島のあちこちへ出かけていった。タクシーをやとったり、バスを利用し
て。
沖縄本島は北東から南西に伸びる細長い島で、北端の辺土岬(へどみさき)から南端まで
約一三〇キロ。神奈川県の半分ぐらいの広さの、北部は山林におおわれているが、中・南部
は緑の少ない平坦な島である。
それは、異様な光景だった。
那覇から、沖縄一の幹線道路の1号線をタクシーで北上する。軍用道路といわれるだけあ
って、幅が広く、舗装もされている。両側の建物の壁に書かれた文字や看板の文字には英
語が多い。しばらく走ると、まず道路の片側に、次いで両側に広大な平地や芝生が広がる。
そこに兵舎や住宅が点在し、おびただしい車両が広場を埋める。中には、損傷した車両もあ
る。動き回る兵隊の姿もみえる。兵舎には星条旗がはためいている。米軍基地だ。道路と基
地は柵や金網で隔てられ、至るところに「立ち入り禁止」の標識がくくりつけられている。
こうした光景を見ていると、何ともいえない圧迫感みたようなものを感じた。基地というもの
は、それを見る者に威圧感を与えてやまないようだ。
それは、1号線をさらに北上して嘉手納(かでな)村に至ったときに頂点に達した。道路右
側に息をのむような、果てしなく広がる米軍基地が展開する。嘉手納空軍基地だ。四〇〇〇
メートル滑走路を二本もつアジア最大の空軍基地。そのうち、道路ぎわの見通しのきかない
高い柵の向こうに、黒い三角錐がいくつも林立しているのが見えてきた。基地に駐機するB5
2の尾翼だった。
B52は、沖縄の人たちが“黒い殺し屋”と呼ぶ大型戦略爆撃機。全世界を行動範囲に収
めるという目的で開発され、水爆も搭載可能といわれていた。まるで巨大な翼を広げた黒い
怪鳥のようなたたずまいは、なんとも不気味で、見る者を恐怖に陥れる。私は、その尾翼を
見ただけで、「これにじゅうたん爆撃でもされたら、地上にいる人間はたまったものではない」
と身震いする思いだった。タクシーの運転手が言った。「見通しのきかない高い柵は道路か
ら見えないようにするための目隠しなんだ」。時折、頭上を米軍機が轟音を響かせて嘉手納
基地方向に降下してゆく。
この日、私が見た米軍基地は、沖縄における米軍基地のごく一部に過ぎなかった。
別の日、那覇港の近くに行ってみた。港には星条旗を掲げた軍艦が停泊していた。
「沖縄全体が膨大な米軍基地と化しているのだな」。そうした事実を知るのにそう時間はか
からなかった。
当時の沖縄の米軍基地は百二十カ所。総面積約三〇〇平方キロ。これは沖縄全体の面
積の一二・七%に及び、沖縄本島では二二%に達する。とりわけ、基地が集中する沖縄本
島中部では、嘉手納村が村域の八八%、読谷(よみたん)村が村域の七九%、北谷(ちゃた
ん)村が村域の七四%、コザ市が市域の六八%が、それぞれ米軍に接収されていると聞い
た。県都那覇市もその二九%が軍用地とのことだった。
こうした米軍基地に駐留する米国軍隊は、陸軍、海軍、空軍、海兵隊の四軍合わせて約
五万人。そのうえ、これら米軍基地には核兵器や化学兵器(毒ガス)も貯蔵されているといわ
れていた。まさに「沖縄の中に基地があるのではなく、基地の中に沖縄があるのだ」という言
い方がふさわしかった。当時の沖縄の人口は九十七万。人々は金網の外の狭い地域に押し
込まれ、超過密の中での窮屈な暮らしを強いられている、というのが私の印象であった。
そればかりでない。通貨はドル(為替レートは一ドル三百六十円)であったし、道路は右側
通行で、車はみな左ハンドルであった。タクシーやバスに乗る時、ドアや扉の位置が本土と
逆なので、しばらくの間、私は戸惑った。
コザ市の繁華街は、夜になると、米兵たちでにぎわっていたが、店先に「A」の表示を掲げ
たバーがあった。そうしたバーは「Aサイン」と呼ばれていたが、これは「APPROVED FOR
US FORCES」、つまり「米軍人が飲食できる店」という表示だった。「Aサイン」で、米兵
にまじってウイスキーを飲んだ。スコッチウイスキーの水割りが一ドルから八〇セントだった。
沖縄はまぎれもなく日本人にとって「外国」、それも米国であった。沖縄の人々にとっては
「祖国の中の異国」ということであったろう。
これらの米軍基地は、さまざまな基地災害をもたらしてきた。航空機事故、騒音、砲弾落
下、廃油・薬物・し尿などによる環境汚染、演習による山火事などである。米兵による犯罪も
後を絶たなかった。加えて、これらの基地災害は、ベトナム戦争の激化にともなっていっそう
増えた。沖縄の米軍基地が米軍のベトナム作戦の後方基地となり、在沖米軍が増強された
からである。それとともに、基地災害を生む米軍基地の撤去を求める声が住民の間で強ま
り、住民による日本復帰運動は勢いを増していった。
私が沖縄の地を踏む八カ月前の一九六八年十一月十九日未明、嘉手納空軍基地で離陸
しようとして滑走中だったB52が爆発し、周辺の民家約百戸の窓ガラスや屋根がこわれ、住
民四人が爆風でけがをした。住民は着のみ着のままで家を飛び出し、口々に「戦争だ」と叫
んで右往左往したという。
私が沖縄を訪れたとき、事故の余韻がまだ残っていた。主要な道路際には「B52を撤去せ
よ」と書かれた革新団体の看板が立っていた。
この事故は沖縄の人たちに新たな衝撃を与え、ただちに広範な団体によって「いのちを守
る県民共闘会議」が結成され、B52撤去を求める運動を始めた。共闘会議は六九年二月二
日にゼネストを設定するも、直前になって中止を余儀なくされるが、B52の爆発事故は沖縄
県民の日本復帰運動をいっそう燃え上がらせる契機となった。
復帰運動を引っ張る沖縄県祖国復帰協議会の要求は「即時無条件全面返還」というもの
だった。何ら条件をつけずに米軍基地を全面的に撤去したうえで今すぐ施政権を日本に返
せ、というわけである。
復帰協が結成された翌年の一九六一年四月二十八日に那覇市で開かれた祖国復帰県民
総決起大会の写真をみると、会場演壇に日の丸が掲げられ、参加者の多くも日の丸の小旗
を手にしている。このころは、とにかく、祖国日本の懐に帰りたい、という「日の丸復帰」といっ
た色彩が強かったことがうかがえる。が、その後、復帰協の集会から次第に日の丸が消え、
代わって「即時無条件全面返還」のスローガンが前面に押し出されるようになる。
ともあれ、沖縄本島をめぐって巨大な米軍基地群を目にするうちに、私は復帰協の要求に
納得するようになっていった。もちろん、県民のなかには、早期復帰や無条件全面返還に反
対する声もあった。それは、基地に依存して生計を立てている人々の間で強かった。が、一
九六八年に行われた琉球政府主席の初の公選で「即時無条件全面返還」を唱える屋良朝
苗・元教職員会会長が選ばれたことからして、「即時無条件全面返還」が県民の民意である
ことは明らかだったとみていいだろう。
ところで、私が書いた『沖縄報告』の「くらし」用の原稿は、沖縄の交通事情、漁業の現状、
米軍基地で働く労働者の生活、米兵・軍属に雇われたハウス・メードの生活、の四本であ
る。
(二〇〇六年五月四
日記)
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