もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第76回 復帰運動燃えさかる沖縄へ


朝日新聞社から刊行された「沖縄報告」(1969年)




 私が、自分の机の引き出しに大切に保管しているものがある。一通の使用済みの“パスポ ート”だ。
 それは、小型になる以前の「日本国旅券」とほぼ同じ大きさの十六ページの薄い手帳で、 表紙はダークグリーン。そこには金文字で「身分証明書」「日本政府総理府」と印刷され、こ れも金色の桐の葉と花が刻印されている。表紙の裏には「本証明書添付の写真及び説明事 項に該当する日本人岩垂弘は沖縄へ渡航するものであることを証明する。この証明書は発 行の日から4年間有効である。内閣総理大臣」との記述があり、最初のページには私の顔写 真が張り付けられていて、私自身の署名がある。
 私がこれを取得したのは、一九六九年(昭和四十四年)六月二十四日のことだ。

 この年、朝日新聞社は全社あげて沖縄の現状を総合的に報道することになり、春から秋に かけ四次にわたる取材班を沖縄に送り込んだ。派遣された記者は、東京、大阪、西部、名 古屋の四本社から計二十一人にのぼった。これに沖縄・那覇支局員二人が加わった。朝日 新聞が、特定のテーマでこれだけ大量の記者を特派したのは社史の上でも珍しいことだっ た。
 取材の結果は、長期連載『沖縄報告』として、五月十八日から朝刊二面に五部作、通算一 〇〇回にわたって掲載された。
 この企画の陣頭指揮をとったのが、当時東京本社編集局次長の一柳東一郎氏(その後、 東京本社編集局長、大阪本社代表、社長を歴任)だった。同氏によると、企画の狙いは次の ようなものだった。
 「沖縄返還は日本の民族的悲願とされ、佐藤首相の訪米に至る日米交渉が全国民の関心 を集めながら、沖縄の実情は意外なほどに知られていない。ここ一両年、ビジネスや観光で 沖縄を訪れる者が激増しているのは事実だが、それも国民全体からすればごく一部であろう し、訪れた者のすべてが、沖縄の全容を識った、というわけにもゆくまい。
 もともと、沖縄は知られることの少ない島だった。敗戦の年六月、牛島司令官以下の日本 軍全滅の日まで、沖縄はたしかに日本の『県』であった。だが、本土の人間にとって、それは 南の海上はるかな、遠い遠い『県』ではなかったろうか。戦前の歴史や地理の教科書が、一 体どれだけのスペースを割いていたかを思えば足りる。この距離感の上に、日本から断絶さ せられた米軍統治下二十余年の月日が重なったのである。軍政の下、人権を抑圧された沖 縄住民の悲しみと怒りも、長いこと本土には伝わらなかった。
 いまようやく、返還の日程が具体化しようとするとき、この長い知識の空白を埋めるのは新 聞として当然の責務ではなかろうか。もっと早めに、読者に沖縄のありのままのを伝えるべ きであったのを、しなかった。その償いの機会でもあろう。『沖縄報告』をスタートした動機は 右のようなものであった」(長期連載『沖縄報告』は一冊の本にまとめられ、六九年十一月に 朝日新聞社から刊行された。その「あとがき」から)
 
 沖縄は日本国の一部だったが、第二次世界大戦末期の一九四五年に日米両軍による地 上戦の舞台となり、六月二十二日に日本軍が壊滅すると、米軍に占領された。日本が無条 件降伏した後は日本全土が米軍主導の連合国軍に占領されるが、五二年四月二十八日発 効の対日講和条約(サンフランシスコ条約)により日本が独立した際、沖縄は日本から切り 離され、米国の施政権下に置かれた。
 これに対し、五〇年代から、沖縄県民による日本復帰運動が始まり、六〇年四月二十八 日には広範な団体による「沖縄県祖国復帰協議会」が結成され、復帰運動が本格化する。
 六五年八月、沖縄を訪れた佐藤首相は那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、 わが国にとって戦後は終わらない」と言明。六七年十一月の佐藤首相とジョンソン米大統領 の会談で「両三年内に返還時期について合意する」との共同声明が発表される。かくして、 沖縄県民による日本復帰運動は一段と燃えさかり、これに呼応した本土の革新団体による 沖縄返還運動も熱を帯びる。
 本土のマスメディアもようやく沖縄問題に目を向けるようになり、朝日新聞の『沖縄報告』も そうした雰囲気の中での先駆的な企画だったと言ってよい。

 ついでにこのことも紹介しておこう。『沖縄報告』に先立ち、朝日新聞が沖縄問題に関し特 筆すべき報道をおこなっていたことだ。
 『沖縄報告』から十四年さかのぼる一九五五年一月十三日付の朝日新聞は、朝刊社会面 のほとんどを使って「米軍の『沖縄民政』を衝く」と題する記事を載せた。それは、米軍統治 の問題点をこと細かに列挙したもので、「土地問題 農地を強制借上げ 煙草も買えぬ地 代」「労働問題 労賃にも人種差別」「一般人権問題」「沖縄の地位」などの見出しが並んでい た。
 この報道のきっかけとなったのは、国際人権連盟議長R・ボールドウィンから日本の自由 人権協会(海野晋吉理事長)に届いた手紙だった。そこには「沖縄で米軍当局が一方的な土 地の強制買収を行っているとの報告がある。資料を送ってくれれば本国の当局に交渉した い」とあった。同協会は資料を集めて検討した結果、「人権擁護の立場から黙視できぬ種々 の問題がある」との結論になった。朝日新聞の記事は、その結論を報じたものだった。
 共同通信那覇支局の初代支局長をつとめた横田球生氏(その後、政治部記者、株式会社 共同通信社常務取締役を歴任。故人)は、この「朝日報道」を「衝撃的な記事があらわれた。 沖縄報道の転機になった、いな、沖縄問題そのものの転機となったとさえいえる記事だ」と位 置づけている(『一九六〇年のパスポート』、二〇〇〇年刊)。
 
 ともあれ、東京本社社会部員だった私は、この『沖縄報告』の第二次取材班の一員に任命 され、沖縄に派遣された。すでに述べたように当時の沖縄は米国の施政権下にあり、いわば “外国”であった。だから、そこへの渡航にはパスポートに準ずる「身分証明書」と米国民政 府発行の入域許可書(渡航ビザ)が必要だったわけである。
 私が那覇空港に降り立ったのはこの年の七月六日。タラップを降りた瞬間、蒸し風呂に入 った時のような蒸し暑さで自分の身体がふわっと持ち上げられるような感じに襲われたことを 今でも鮮やかに覚えている。それに、まるで天空から熱い油が降り注いでくるかのような感じ の、ギラギラした白熱の太陽光と、滑走路のすぐわきから果てしなく広がる真っ青な海の色 に思わず目がくらんだことも覚えている。「沖縄にきたんだ」という実感が心底からわいてき た。
 その実感も、もっと正確にいえば「ついに沖縄に来ることができたんだ」といった感慨であっ た。というのは、高校時代から、できれば一度沖縄を訪れてみたい、という気持ちを抱き続け ていたからだ。
 私が高校二年だった一九五三年、東映映画『ひめゆりの塔』が公開された。沖縄戦に看護 要員として動員され、犠牲となった沖縄県立第一高等女学校と沖縄県師範学校女子部の生 徒、すなわち「ひめゆり学徒」の悲劇を描いた劇映画だった。監督は今井正。出演は津島恵 子、香川京子、岡田英次ら。
 完成前から映画ファンの注目を集めた作品だったから、高校時代から映画好きだった私 は、早く観たいと思った。だから、自分の住んでいる町の映画館にかかるのを待ちきれず、 わが町より先行して上映が始まっていた遠く離れた町の映画館へ、これも映画好きの同年 生と二人で自転車をこいで観に行った。
 米軍に沖縄本島南端に追いつめられ、もはやこれまでと、校歌を歌いながら最期をとげて ゆく少女たち。私はたとえようもない悲しみを覚えた。ひめゆり学徒の悲劇は、悲惨な沖縄戦 を象徴するものとして、私の心に深く刻みつけられた。その後、石野径一郎著の『ひめゆりの 塔』も読み、彼女たちへの哀悼の思いをいっそう強めた。
 そんなこともあって、いつか、ひめゆり学徒がたどった行程を、この目、この足で確かめて みたい、と思っていたのである。「その時がきたのだ」。那覇空港に着いた時、私の心の中を そんな思いがよぎった。 (二〇〇六年四月二十六日記)      





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