もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第75回 個人崇拝について考える


建国20周年記念のマスゲームが行われた金日成スタジアムにも金日成首相の肖像が掲げられていた
(写真の右端上部)=1968年9月10日、平壌で筆者撮す




 一九六八年(昭和四十三年)九月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)滞在中にとくに印 象に残ったことはまだある。金日成首相に対する個人崇拝だ。

 いたるところに金日成首相の肖像があふれていた。
 公共的な施設には、必ずといっていいほど、胸から上の、正面を向いた肖像写真が掲げら れていた。例えば、平壌駅の駅舎の外壁、金日成スタジアムのスタンド、官庁や工場の応接 室、学生少年宮殿(子どもたちの課外活動施設)の学習室、学校の教室、ホテルのロビーや 客室等々である。
 そればかりでない。労働者の家庭を訪ねると、居間に首相の肖像写真が飾られていた。そ れを見て、私は十年前の一九五八年に岩手県北部の農村を訪れた時のことを思い出した。 家々の居間には昭和天皇と皇后の写真がうやうやしく掲げられていた。それと雰囲気がとて もよく似ていた。
 街頭では、大勢の国民や子どもたちを率いる首相を描いた巨大な絵を見かけた。
 肖像写真や絵が掲げられていたばかりでない。工場や協同農場には、首相の思想を学ぶ 学習室が設けられていた。
 人々の左胸には、いわゆる「金日成バッジ」があった。首相の顔写真を形どったバッジであ る。私たち日本記者団は、それをつけている人に尋ねてみた。「つけるのは義務ですか。ど こで手に入れるんですか。街で売っているんですか」。答えはこうだった。「強制ではありませ ん。みな、首相同志への敬愛の念からつけているんです。売ってはいません。希望すれば、 職場などでもらえます」
 ある中学校を訪ねた時のことだ。校舎の一角にガラスのケースが置かれていた。のぞいて みると、中にあったのは、たばこの吸いがら一本と灰皿、それに白いコーヒーカップだった。 けげんな顔をしている私たちに案内の学校関係者は誇らしげに言った。「首相同志がこの学 校にお見えになった時に使われたものです」。個人崇拝もここまできているのか、と私たちは 顔を見合わせたものだ。
 私たちは、個人崇拝の対象である首相に直接会うことはできなかった。が、三カ所で遠くか ら眺めることができた。国会議事堂で開かれた建国二十周年記念中央慶祝大会の演壇、慶 祝大会後の外国代表団を招いての祝賀パーティー会場、マスゲームが行われた金日成スタ ジアムの貴賓席である。

 個人崇拝とは、大衆が、ある特定の人物(多くの場合、政治的指導者)をあがめ、うやまう ことだ。それは、大衆自身の自発的意思により、つまり自然発生的に生み出されたものもあ れば、特定の人物個人、あるいはその個人が属す組織の意識的かつ積極的なイニシアチ ブ、すなわち「上」からの動員によって生み出されたものもあるだろう。
 北朝鮮における金日成首相への個人崇拝が、どちらのケースに属するものなのか、当時 の私にはにわかに判断できなかった。が、この国で絶対的な権力を握っているのは朝鮮労 働党、なかんずくそのトップの金日成首相なのだから、この国の個人崇拝も首相自身と労働 党によって演出され、普及が図られていると見るのが自然だろう、との思いが強かった。
 では、この時期、なぜ金日成首相への個人崇拝が推進されていたのだろうか。当時、私は 次のように類推したものだ。
 一つには、金日成が強大な権力を必要としていたからではないか。
 日本の植民地支配から解放されたばかりのこの国(当時の人口は約一八〇〇万人と推定 される)は、建国にあたって社会主義体制を選択した。それだけに、政治的リーダーだった 金日成は社会主義建設を急速に進めるためにはさまざまな困難に直面したと思われる。そ れを打破するためには、政策を迅速に断行する強力で集中的な権力を必要としたにちがい ない。党内の権力闘争で勝ち残るためにも強大な権力を求めていたのではないか。
 ともあれ、強大な権力を手中にするためには、まず国民大衆の支持を得なくてはならない。 そこで、金日成個人への求心力を高めるために、金日成個人への結集を訴える個人崇拝 が積極的に推進されたのではないか。 
 北朝鮮の個人崇拝の実態に接して、私はまたソ連や中国に思いをはせざるをえなかった。 ソ連も中国も、発展途上国でなしとげられた社会主義革命で、その後の社会主義建設は困 難を極めた。そこで生じたのが指導者への個人崇拝だった。すなわち、ソ連ではスターリン への、中国では毛沢東への個人崇拝が、世界の耳目を集めた。そこで、私は「個人崇拝と いう点では、発展途上国・北朝鮮も中ソの後を追っているのか」と考えた。
 その一方で、個人崇拝が社会主義国共通のものとは思えなかった、なぜなら、北ベトナム にはホー・チ・ミンに対する個人崇拝はなかったし、キューバでもカストロに対する個人崇拝 は生じなかったからだ。
 北朝鮮の場合、朝鮮戦争も、個人崇拝を促進したのではないか。戦争では、国民を戦争に 動員するために強力な国民統合のシンボルが必要となるからだ。滞在中、朝鮮戦争の陣頭 に立つ金日成首相を描いた絵を美術館や戦争記念館でみかけたことから、そうした見方を 私はいっそう強めた。
 そして、その後の激しい「南北対立」も、指導者個人に対する崇拝の強化につなかったと思 われる。他国の脅威から国を守るには国民の一致団結を図らねばならない。それには、強 い指導者のもとに結束するよう訴えるのが政治の常道というものだ。

 後年、平凡社の『大百科事典』(一九八四年発行)で「個人崇拝」の項を読んだ。そこにはこ うあった。
 「指導者に対する大衆の盲目的支持がこうじ、あるいはそのような状況を利用して指導者 が自己に対する服従を強制する結果、宗教運動に類似した指導者への献身的な崇拝が生 じること。一般的に革命を経験した体制において生じやすく、スターリン体制でのソ連や、晩 年の毛沢東下での中国のように、共産主義運動が権力を握った後の国家で顕著に現れた。 第三世界のカリスマ的指導者や民族主義運動のリーダーにも、英雄崇拝のような形でみら れ、疑似革命的な象徴形式を利用するファシズムでも、<指導者原理>として知られる指導 者崇拝が行われた。革命や社会変動によって旧来の伝統的な社会制度が解体し、しかも集 団的危機意識が高まり、周辺諸国の脅威から自国を防衛する必要のある状況下で指導者 の個人的役割は大きくなり、しばしば指導者自身が新たな価値の体現者・制度の代用物と 化する傾向がある……」(下斗米伸夫)
 まことに見事な説明で、北朝鮮における個人崇拝もこれで理解できるな、と思った。

 ところで、私たち日本記者団の北朝鮮取材が日本共産党のあっせんで実現したことは、す でに述べた。私たちが日本を発ったのは八月三十一日だったが、それに先立つ八月十九 日、宮本顕治書記長を団長とする日本共産党代表団が、北朝鮮の朝鮮労働党と会談すべ く、平壌に向かった。私たちが平壌入りした九月三日には、両党会談はすでに終わり、宮本 団長らは帰国していた。平壌に残っていたのは代表団員の内野竹千代・幹部会員候補と松 本善明代議士の二人。両氏は、日本共産党の代表として建国二十周年記念中央慶祝大会 に出席するなどしていた。
 私たち記者団は、両氏と会うことができた。両氏が滞在していたのは招待所といわれる施 設で、いわば国賓などを接待するための迎賓館だった。平壌市内を流れる大同江のほとり、 緑豊かな風光明媚な丘の中腹にあり、ソ連のフルシチョフ首相も泊まったことがあるとのこと だった。このことからも、日本共産党代表団に対する厚遇ぶりがうかがわれた。それはま た、日本共産党と朝鮮労働党が極めて友好的な関係にあることを私たちに印象づけるもの であった。
 ところが、である。ずっと後になって表面化したことだが、実はこの時すでに、その極めて友 好的な両党関係に亀裂が生じていたのだ。私たちが日本を発つ前の八月二十四日に両党 会談が行われたのだが、そこで意見の食い違いが生じたからだった。
 意見が対立した点の一つは、チェコ事件への評価だった。チェコ事件とは、両党会談の直 前の八月二十日、ソ連・東欧五カ国軍がチェコスロバキアに侵入した事件。「プラハの春」と 呼ばれた、チェコスロバキで進んでいた自由化をつぶすのが狙いだった。
 日本共産党によると、会談で宮本書記長が「ソ連やその同調者が、彼らの主観で、チェコ スロバキアは社会主義ではなくなったと勝手に判断し、それを根拠に、外国の軍隊を入れる というようなことを認めたら、これからも、彼らが反革命と認定してあれこれの軍隊を入れる ことを認めることになる。これはきわめて重大なことであり、きびしい態度で臨むべきだ」と述 べたのに対し、金日成書記長(首相)は「社会主義共同体の擁護だ」と繰り返したという(日 本共産党中央委員会『日本共産党の七十年』)。
 同党によれば、この会談時、党代表団が泊まっていた宿舎で盗聴器が発見されたという。 このことも、日本共産党が朝鮮労働党に批判を強める契機の一つとなる。やがて、両党はラ ングーン事件や大韓航空機事件などをめぐって公然論争を行うまでになる。一九八〇年代 のことだ。

 私たちは約三週間にわたる取材を終え、九月二十五日、平壌を離れた。空路でソ連のイ ルクーツクに向かい、そこで乗り換えてハバロフスク空港に降りた。ここに一週間滞在し、列 車でナホトカへ。そこでソ連船「ハバロフスク号」に乗り、横浜港に接岸したのは十月三日で あった。
 イルクーツクに降り立った時、全身がゆるんでゆくかのような安らぎを覚えた。それほど、 北朝鮮での三週間は緊張に満ちた日々であった。 (二〇〇六年四月十六日記)





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