もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第74回 徹底した自力更正路線


行く先々で「自力更生」の声をきいた(1968年9月18日、岐陽のトラクター工場で)




 一九六八年(昭和四十三年)九月に訪問した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で印象に 残ったことの第二。それは、国を挙げて「自力更正」路線を突っ走っていたことだ。

 首都・平壌の街角に掲げられていたスローガンで一番目立ったのは「自主・自立・自衛」と いうものだった。政治における自主、経済における自立、国防における自衛を貫徹しようとい う意味であった。つまり、国家活動のあらゆる分野で自分流の考え方、やり方を貫こうという わけだ。

 政治における自主とは、他国に追随することなく、いわば自主独立の道を歩むということの ようだった。
 それは、この国の国際路線に端的に表れていた。九月七、八両日、平壌の国会議事堂で 開かれた建国二十周年中央慶祝大会で演説した金日成首相は、その中で「兄弟党と兄弟 国が真に団結するためには、完全なる平等、自主性、相互尊重、内政不干渉および同志的 協力を基本内容とする兄弟党と兄弟国間の相互関係の準則を守らなくてはなりません」と述 べた。共産党・労働者党間の関係、社会主義国間の関係で自主独立路線をとることを強調 したものと見てよかった。
 当時、国際共産主義運動陣営は真っ二つに割れ、対立が激化しつつあった。二大大国の ソ連と中国が激しく対立し、両国は世界の兄弟党(共産党・労働者党)に向けて多数派工作 に躍起となっていた。このため、各党はどちらかの傘下にはいることを余儀なくされていた。 そうした構図の中で、北朝鮮(朝鮮労働党)としては、中ソどちらの陣営にも属さないことを改 めて明確にした。それが、この金日成演説だったといってよかった。
 それは、中央慶祝大会にやってきた外国の代表団の扱いにもよく表れていた。金日成演 説に続いて外国代表の演説が行われたが、トップは北ベトナム。以下、ソ連、南ベトナム民 族解放戦線、ポーランド、キューバ、ラオス愛国戦線、モンゴル、ブルガリア、日本共産党、 ハンガリー、東ドイツ、ルーマニア、アルジェリア、カンボジア、アラブ連合……という順序。こ れを見てわかったのは、北ベトナム、キューバ、日本共産党が極めて厚遇されたということだ った。しかも、これらの国、党の代表団席は外国代表団席の最前列、いわば特等席であっ た。
 これらの国・党は当時、国際共産主義運動の中でソ連にも中国にも追随せず、独自の道 をゆく自主独立派。だから、北朝鮮がこれらの自主独立派と極めて友好的な関係にあること がうかがえた。
 中ソどちらにも追随しないといっても、ソ連とは友好的な関係にあると感じられた。ソ連はこ の中央慶祝大会にポリャンスキー副首相・ソ連共産党政治局員という大物を派遣した。そこ には、北朝鮮との結びつきを強化しようというソ連の熱意が読み取れた。
 それにひきかえ、中央慶祝大会の席に中国、アルバニアといった中国派代表団の姿がみ えないのが目立った。中国はこの大会に本国から代表団を送らず、平壌駐在の臨時代理大 使を出席させただけ。こうした事実から、私たち日本記者団の目には、北朝鮮と中国が冷た い関係にある、と映った。
 平壌にある朝鮮戦争に関する資料館「祖国解放戦争記念館」に、朝鮮戦争に参戦した中 国人民義勇軍に関する資料が一つもないことに私は驚いた。「これは歴史の偽造ではない か」。私たち記者団が「中国人民義勇軍について言及されていないが」と指摘すると、案内の 人民軍中佐は「たしかに祖国解放戦争では社会主義国から支持を受けた。いまその資料を 整理中だ」と答えた。
 三十八度線の板門店の北朝鮮領内にはかつての停戦協定調印会場が保存されていた が、そこに展示されていた朝鮮戦争の資料にも、中国人民義勇軍に関する資料は見当たら なかった。「とにかく、この国では今、中国色をいっさいぬぐい去ろうとしているのではない か」。そんな思いを抱いた。私たち記者団が接触した人たちも、こと中国のことに話題が及ぶ と、あまり語りたがらなかった。
 この時期、中国では毛沢東が率いる文化大革命が燃えさかっていた。中朝関係は、冷た い関係というよりはむしろ険悪な関係にあったのかもしれない。

 経済における自立。それは、自国の資源、自分たちの技術を活用して自国の経済の発展 を図る、ということのように思われた。
 工場へ行く。すると、案内の支配人や技師長が「わが国の設計、わが国の技術、わが国の 資材で完成させました」と語る。トラクター工場では、自力で国産第一号をつくるまでの苦心 談を聞かされた。「初めてのトラクターが出来たのは一九五八年十一月ですが、部品の組み 立てから始動までに三日間かかりました。が、出来上がったものの前に進まないで後ろに走 り出す。これにはあわてました。これも自力で解決しましたが、結局、組み立てから始動まで に三十五日間を費やしました」と副支配人。
 東海岸の咸興にある「本宮二・八ビニロン工場」では、この国で豊富に産出されるという石 灰石と無煙炭を原料にしたビニロンがつくられていたが、工場関係者は、その製造方法がこ の国の李升基博士の発明によるものであると自慢した。
 百貨店に行く。案内の係員が「みんな国産品です」と口をそろえる。
 九月六日には、平壌の映画撮影所に外国代表団を招いて、建国二十周年を記念して製作 された記録映画『新しい朝鮮』が上映された。鉄鋼、トラクター、電気機関車、トラック、工作 機械、板ガラス、織物……と、この国で生産された工業製品が次々と出てくる。「わが国でで きないものはない」といわんばかりだった。
 加えるに、一にも二にも生産向上だ。そのために、チョンリマ(千里馬)運動というのが展開 されていた。チョンリマとは朝鮮の伝説に出てくる翼の生えた馬のことである。一夜に千里を 駆けるとされる。チョンリマ運動は、このチョンリマのような速い速度で経済の全部門で生産 力を高めようという運動で、一九五六年から始まったとのことだった。
 平壌の中心にあるモランボン(牡丹峰)公園には、この運動のシンボルであるチョンリマの 銅像がそびえていた。翼の生えた馬の背に青年と若い女性が乗った銅像で、高さは台座の 部分を含め四十六メートル。平壌のどこからでも望まれた。生産計画を早期に達成した工場 には、「チョンリマ工場」の称号が与えられるとのことだった。これは大変名誉ある称号、との 説明だった。

 国防における自衛については、いまさら説明する必要はないだろう。自分の国は自分たち で守るということだ。すでに、前回で紹介したが、この国に滞在中、至るところで、「全国土を 要塞化し、全人民の武装化を進めよう」というスローガンをみかけた。軍備強化を目指し、こ の国の一九六八年度の国防費が国家予算の三〇・九%にも達することもすでに紹介した。

 ともあれ、この国はまるで肩を怒らせるようにして「自力更正」を唱え、実践しているように 思えた。
 なぜ、それほどまでに「自力」にこだわるのか。この国に足を踏み入れて、この目でこの国 の実像(それはごく一面に過ぎないが)に接するうちに、それは、ひとえに朝鮮半島の地勢と 歴史に深く根ざしているのではないか、と思うようになった。
 まず、朝鮮半島が大陸と地続きである点を挙げなくてはなるまい。地続きであるために、朝 鮮民族は、古来、絶えず大陸に興亡する大国の侵略を受けてきた。朝鮮民族の歴史は、外 圧とそれへの抵抗といっても差し支えないほどである。
 例えば、高句麗の時代は隋、唐の侵略を受けた。その高句麗も唐と連合した新羅に滅ぼ された。高句麗の後身とされる渤海は、北方の契丹族によって滅ぼされた。高麗の時代に は、蒙古に侵略され、その属国になった。
 陸続きでなくとも、周りの大国は朝鮮を放っておかなかった。李朝の時代には、日本の豊 臣秀吉が海を渡って攻めてきた。そればかりでない。一九一〇年には、いわゆる「日韓併 合」によって日本の植民地と化してしまう。日本による植民地支配は三十六年間も続く。この 間、祖国を失った朝鮮民族は、亡国の民としての悲哀を味わう。プライドの高い朝鮮民族と しては、まことに耐え難い日々だったにちがいない。
 日本は第二次世界大戦で降伏し、朝鮮は解放されるが、日本の植民地支配から脱したの もつかの間、今度は三八度線を境に連合国軍側の米ソ両軍によって占領される。これが、 今なお続く南北分断の遠因となる。
 朝鮮半島の北半部の人たちが朝鮮民主主義人民共和国としてスタートしてからも、経済政 策をめぐってソ連から干渉や圧力があったようだ。このことは、当時の、さまざまな機会にな された金日成演説や報告の内容からもうかがえる。国際共産主義陣営内で中ソ両国が多数 派工作にしのぎをけずった一九六〇年代から七〇年代にかけては、中ソ双方からさまざま な圧力がこの国にもあったと思われる。
 こうした長い歴史的経験を通じて、この国の国民は民族の独立ほど貴いはないと考えるに 至ったのではないか。民族の独立を堅持するためには、外国をあてにすることなく、自らの 判断と力に依拠する以外にない――そうした思いが、この国をしてかたくなとも思えるほどの 自力更正路線、自主独立路線をとらせているのではないか。私には、そう思えたのである。
(二〇〇六年四月八日記)





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