もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
国会議事堂で開かれた創建20周年中央慶祝大会(1968年9月7日)
一九六八年(昭和四十三年)九月三日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に着いた私たち日本
記者団(四人)の受け入れ機関は、朝鮮対外文化連絡協会(対文協)だった。外務省の外郭団体で、
北朝鮮と国交のない国々の代表団を受け入れる際の窓口となっているとのことだった。
私たちは、翌日から、対文協の二人の職員の案内で各施設を見学することになるわけだが、私た
ちが泊まっていた大同江ホテルに現れたその一人の王さんに日本語で「みなさん、おはよう。私たち
がきょうから皆さん方の工作にあたりますから、よろしく」とあいさつされた時には仰天してしまった。
「工作」という言葉にである。私たちを洗脳しようというのか?
広辞苑によれば、工作とは「或る目的のために予め計画的な働きかけを行うこと」だが、日本では、
工作とか工作員という文言には、悪巧みをもって人に近づき、あれこれ手を使ってある行為を強い
る、といった暗いイメージがつきまとう。しかし、王さんと話しているうちに、王さんのいう工作とは、お
世話をするとか、案内をするという意味と知って、笑ってしまった。
途中、案内役が内閣の出版総局の副総局長と出版対外宣伝局副局長の二人に代わった。外郭団
体の職員から内閣直属の高級官僚へ。私たちを案内する人物の格が一段と上がったことだけは確
かだった。それがどういう理由によるかはわからなかった。取材活動における私たちの言動から、日
本のマスコミを重視する方向に転換したのだろうか。
日本記者団が案内された地域は、首都平壌とその周辺、東海岸の興南、咸興、中部の信川、南部
の開城、板門店など。これらの地域で訪れたのは電気機関車工場、機械工場、トラクター工場、肥料
工場、紡織工場、ビニロン工場、労働者住宅、協同農場、家禽牧場、灌漑施設、百貨店、病院、金日
成大学、高等技術学校、中学校、少年文化宮殿、革命博物館、美術博物館、戦争記念館などだっ
た。少年文化宮殿とは、子どもたちの課外活動施設のことだ。
板門店では、いわゆる三十八度線(休戦ライン=軍事境界線)を「北」側から見た。はるか遠くに
「北」側を監視する米兵たちの姿が見えた。板門店の北側の地域に休戦協定の調印が行われた会
議場が保存されていて、私たちはそこも訪れた。
さらに、滞在期間中の九月七、八両日には平壌の国会議事堂(万寿台議事堂と呼ばれていた)で
建国二十周年を記念する中央慶祝大会が開かれ、私たち記者団も傍聴を許された。金日成首相が
演説をしたほか、各国の政府代表、革命組織代表の演説があった。これには各国、国際組織の代表
団が招かれたが、日本から招かれたのは日本共産党、社会党、日本労働組合総評議会(総評)、日
朝協会、日本民主青年同盟(民青)の各代表団だった。
建国記念日の九日には、平壌の中心、金日成広場でパレードが、翌十日には、金日成スタジアム
でマスゲームがあった。
こうした見聞から、特に印象に残ったことをいくつか書く。
まず、国全体がぴりぴりするような緊張感に包まれていたことだ。
平壌市内では、軍服姿が目立った。目抜き通りでは、荷台に人民軍兵士を載せたトラックを見かけ
た。街頭でも制服の兵士に出会った。バス停では、市民にまじって兵士がバスやトロリーバスを待っ
ていた。ある日、記者団はサーカスを見に行った。休みを利用して見に来たのだろうか、大勢の人民
軍兵士が観客席を埋めていた。
また、記者団が市の中心にあるモランボン(牡丹峰)公園を訪れた時のことだ。公園は家族づれで
にぎわっていたが、人混みから離れて一歩植え込みの裏に回ると、そこで銃をもった兵士を何人も見
かけた。パトロールをしていたのだろうか。女性の兵士もよく見かけた。
平壌市内の電気機関車工場や咸興の機械工場の正門には、銃をもった男が直立不動の姿勢で立
っていた。服装が人民軍兵士のそれと違うので、労農赤衛兵(民兵)かもしれないと思った。
大学でも高等技術学校でも「軍事教練をしている」との説明を受けた。平壌の少年文化宮殿では、
射撃訓練のコーナーがあった。子どもたちが射撃をしてみせてくれた。的は米国兵を形どった人形だ
った。また、電信の技術を習うコーナーがあり、女の子たちが「トン・ツー」「トン・ツー」とキーをたたい
ていた。背景の壁に大きな絵。そこには、朝鮮戦争の時、戦場で切れた通信線を身をもって確保した
兵士、すなわち自らの身体を伝導体にして通信を守った兵士の絵が描かれていた。「こうした兵士の
精神で技術を学んでいる」と教官は言った。
平壌の美術博物館では、建国二十周年を記念して公募した絵画展が開かれていた。金日成首相
の抗日パルチザン闘争を描いた絵や、朝鮮戦争で敵の陣地に突撃する人民軍兵士の活躍を描いた
絵が多かった。
「全国土を要塞化し、全人民の武装化を進めよう」というスローガンも目についた。板門店の停戦委
員会会議場を見学した時、案内の人民軍大尉は「全国土の要塞化、全人民の武装化が進んでいま
す」と言った。
もっとも、私たち記者団が案内された地域では、要塞らしいものは見かけなかった。重要な施設は
すでに地下にもぐらせてしまったのかな、と類推したものだ。記者団が平壌から開城、咸興に向かうと
きは夜行列車だった。沿線の施設を見せたくなかったのだろうか。
もちろん、のどかな風景がなかったわけではない。平壌滞在中、街は慶祝行事でお祭り気分があふ
れていたし、夜、平壌市内を流れる大同江の河畔の遊歩道を歩くと、若いアベックに出会った。が、
バー、キャバレーといったたぐいのものはついぞ見かけなかった。
だから、全般的な印象としては、この国は“臨戦態勢”にあるなという感じだった。このころ、日本で
は、「昭和元禄」とか「太平ムード」といった言葉が流行っていた。そんな平穏極まる日本からきた私
の目には、この国のたたずまいはまさに異様と思えるほどの緊張ぶりであった。その落差に戸惑いを
覚えた。
こうした緊張ぶりはどこから来ていたのだろうが。
まず、双方で三百万人から四百万人もの犠牲者を出した朝鮮戦争から、まだ十五年しかたってい
ないからではないか、と思った。この国の人々と話していると、彼らの間では戦争の記憶がまだ生々
しいように感じられた。それに、国連軍(実質的には米軍)、北朝鮮軍、中国軍の三者によって調印さ
れた休戦協定も、あくまでも「休戦」のための協定であって、平和協定ではない。すなわち、形式的に
は、戦争はなお継続中なのであった。だから、「北」の国民としては警戒心を解くわけにはいかない、
ということだったのだろう。
加えて、この時期、北朝鮮が「アメリカと韓国がわが国を攻撃しようとしている」との情勢認識をもっ
ていたことも緊張の背景にあったように思う。こうした情勢認識を端的に表していたのが、建国二十
周年記念の中央慶祝大会で行われた金日成首相の演説だった。その中で、首相はこう述べた。
「朝鮮におけるアメリカ帝国主義者の新たな戦争挑発策動は、すでに重大な段階にいたりました。
彼らは南朝鮮において新たな戦争を積極的に準備しており、共和国に反対する軍事的挑発をいっそ
う露骨に強行する道に入りました」
「もし敵が我々に新たな戦争を強いるならば、全人民は共和国北半部における偉大な社会主義の
獲得物を守り、祖国の完全な解放と統一をかちとるために、アジアと世界の平和を守るために英雄
的なたたかいにこぞって立ち上がるであろうし、敵に殲滅的な打撃を与えるでありましょう」
来るなら来い、というわけだ。国中に極度の緊張感がみなぎり、戦時色が濃くなるのもむべなるか
な、と思った。
「北」がこうした情勢認識に立つ以上、軍備強化に向かうのは当然の成り行きだったろう。私たちが
「北」滞在中に政府当局者から聞いたところでは、一九六八年度の国防費は国家予算の三〇・九%
とのことだった。まことに高い比率と言ってよかった。
今から思うと、米国はこの時期、ベトナム戦争の泥沼に足をとられていたから、とても朝鮮半島で戦
争をする軍事的余裕などなかったと思われる。が、「北」は当時、本音はともかく、表面的に表れた限
りでは「米国の脅威」を強調してやまなかった。
ただ、この時期、北朝鮮をこうした情勢認識に駆り立てたと思われる事件が起きていたことも事実。
プエブロ号事件である。プエブロ号は米国の情報収集鑑で、この年(一九六八年)一月二十三日未
明、北朝鮮東海岸の元山沖で作戦行動中、北朝鮮軍に拿捕された。北朝鮮によれば、領海内に入
ってきたので拿捕したという。本当に領海侵犯があったかどうかという詮索はひとまずおくとして、北
朝鮮現地で得た印象では、プエブロ号の偵察行動が北朝鮮の反発を生み、この国がいっそう米国に
対し警戒心を高める契機になったのは確かのように思えた。
私たち日本記者団が北朝鮮入りした時、プエブロ号の乗組員はまだ抑留されていた。私たちは九
月十二日、乗組員に会う機会を得た。北朝鮮政府が平壌滞在中の外国人記者に会見を許可したか
らである。記者会見の会場は平壌の中心部から東へ車で二十分くらいのところにあった乗組員の収
容所で、乗組員八十二人のうち、ブッチャー艦長以下二十人が出席した。私たちも各国の記者ととも
に彼らの話を聴いた。
こんなこともあった。平壌に着いて八日目の九月十日朝だったと記憶している。朝、ホテルの食堂で
顔を合わせた読売の飯塚繁太郎記者が、憤懣やるかたないといった表情で語った。「昨夜、公安らし
い人物がおれの部屋を訪ねてきて、君は日本にどんな内容の記事を打電したのか、と詰問されたん
だ。この国を非難するようなことはいっさい書いていないのに」。
私たち記者団は、八日に、それぞれの本社に北朝鮮入りしてからの第一報を送った。私のそれは
九日付の朝日新聞朝刊の第一面に載った。飯塚記者によると、同記者の第一報も同日付の読売新
聞朝刊に載ったという。ところが、韓国のある新聞がこの一部を転載するなどして北朝鮮に関する報
道を行ったが、それは飯塚記者の第一報の内容をねじ曲げたものだったらしく、あたかも飯塚記者
が北朝鮮に悪い印象をもったかのような報道となっていたらしいという。韓国紙の報道を察知した北
朝鮮当局が、飯塚記者に送った記事の内容を確かめるために“深夜の訪問”となったのだった。
私たちは、いまさらながら「南北対立」の激しさに身震いする思いだった。だから、朝鮮半島に関す
る報道では、慎重を期さねばならない、双方から利用されるような不用意なことは避けねば、と私は
自分に言い聞かせた。 (二〇〇六年三月三十一日記)
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